新たな境地に至る茶文化
|
紅茶は明代に誕生し、清代に盛んになりました。紅茶も烏竜茶と同じく、福建省武夷山市地区で生まれたと考えられています。清代の劉 が『片刻余閑集』(1753年以後)で「武夷山の第九曲のつきあたりの星村鎮では、各種の茶を売る店がたくさんある。福建省の邵武市や江西省の広信等で生産したお茶もある。その茶は葉が黒色で、出来上がったお茶は紅色になる。その茶は江西烏とも呼ばれて、星村の各店で販売されている」と紅茶について記述しています。この紅茶は小種紅茶(正山小種)というもので、後の工夫紅茶です。その後、紅茶の生産技術は安サユ省、江西省各地に伝わったのです。有名な祁門紅茶は、福建で働く安徽出身の役人、余乾臣が仕事を辞めた時、故郷に紅茶の生産技術を持ち帰り、祁門の歴口で紅茶の工場を開設したのが始まりと言われています。これが世界三大紅茶の一つ「祁門紅茶」です。
明清時代の最大の成果は、今日の中国茶芸のもととなった「工夫茶芸」の完成です。工夫茶というのは、烏竜茶の淹れ方に独特の作法を加えたものであり、一種の茶芸技術といえるものです。最初は明代の江西、浙江地区の都市に現れ、それから広東、福建に伝わりました。清代になると「工夫茶芸」の中心は福建省南部や潮州市・汕頭市地区に移り「潮汕工夫茶」が非常に有名になりました。この茶芸は、今日の茶芸館の主要な淹れ方の一つとなっています。 初めて工夫茶芸が記述された書物は、清代初期の文人袁枚著『随園食単』「茶酒単・武夷茶」です。「乾隆51年の秋に、私は武夷を遊覧した。曼亭峰や天遊寺などを回った時に、どこに行ってもお茶を出してくれた。茶碗は胡桃と同じサイズで、壺(急須)も小さい。一杯のお茶は50グラムもない。口に入ったら先に香りが湧いてくるので、すぐ飲みたくなくなる。それから茶の味をゆっくり楽しむ。香りが鼻から出ても、舌の表面に甘みが残っている。一杯を飲んだ後、二杯、三杯まで気持ちよく飲める。このお茶を飲んでみると、竜井茶や陽羨茶はいずれも香りや味が薄く、武夷のお茶の方が優れていることが分かった。玉と水晶のように、品格が全然違うからである」これは武夷岩茶の味を描写しているだけのものなのですが、そこに登場している茶器と淹れ方は正式な工夫茶芸のものに間違いないと思われます。
この淹れ方が後に兪蛟著『夢廠雑著』の中で「工夫茶の淹れ方は陸羽の『茶経』に従っているが、茶器は更に良くなっている。焜炉(風炉)は筒の形で、高さが約30センチで、白泥で作られたものである。壺(急須)は宜興で焼いたものが最高である。丸い形で中央が膨らみ、注ぎ口が尖って、取っ手が曲がっている。大きいものは500グラムの水が入る。茶碗、茶盤は白磁が多い。内と外に山水や人物をきれいに描かれているから、古典的な趣がある。従って、制作時期は確定できない。焜炉(風炉)、壺(急須)、茶盤は一つずつ、茶碗は客の数だけ用意する。茶碗は小さくて、茶盤は満月のような丸い形をしている。このほかに瓦鐺(大きな土鍋)、棕テンシュロの鍋敷き」、紙扇、竹夾等がある。すべて素朴で雅な形をしている。壺(急須)と茶盤と茶碗は古くていい物は玉と同様に貴重なので、簡単に手に入らない。蓋を閉めてから、その上にお湯をかける。それから茶を茶碗に注ぎ分けて飲む。香りが豊かで、梅花を食べている様にあっさりしている。普通の人にはその風味は分からないのである」と描写され「工夫茶」と名付けられたものです。 工夫茶は茶器、淹れ方、雰囲気、環境、音楽の美しさを非常に重んじているので、明清時代の茶人達によって、茶芸は最高の境地に達し、工夫茶は最盛期を迎えることになるのです。 この様に前回から書き出した明・清代の茶文化の発展は、全く新しい展開を遂げます。今日の中国茶とその文化の多くは、明・清代に始まったといっても過言ではありません。 茶文化の発展は文化芸術の領域にも反映されました。特に乾隆帝が江南へ六回視察した時に、竜井茶に関する詩を五首作った中の一首「採茶を観て作る歌」の部分を紹介します。 火前の嫩、火後の老、 村の男達は、あいついで層椒(山)を下り、籠いっぱいの雀舌や岳鷹爪の形(お茶の形の形容)のお茶を持ち帰る。土の炉の弱火を燃やし続け、乾いた釜で柔らかく素早く炒る。 この歌のように、皇帝までもが竜井茶の摘み取りや製茶について詳細に理解できるようになったことが分かります。(2004年10月号より) |
|