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船曳の人夫たち
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写真 文・魯忠民 |
古代の中国では、険しい道を切り開くよりも先に、便利な水路が発達した。それは最も早くから利用された水上の交通・運送ルートであった。南から北に至るまで、河川や湖、海の上では多様な船(舟)が往来したのである。 河川の船は、帆を揚げて舵をとり、流れにそって河を下れば、「一瀉千里の勢い」だった。しかし、流れに逆らい河を上れば、「進まず、退く」ことになる。そこで船を上流に運ぶためには、船曳の人夫たちが船にロープをつないで、河岸づたいに牽引しなければならなかった。その歴史は定かではないが、河川が流れ、船と舵ができたころには、この仕事も生まれていたに違いない。 人夫には、船乗りを兼務する者や臨時に雇われた者などがいた。河の流れや船の大きさ、積載量の違いによって、人夫の数も異なった。少ない時は2、3人、多い時は数十人が必要だった。 河川が網の目のように集まる江南地方は、船の往来も活況をきわめた。河岸に沿って敷かれた石畳の古道は、橋梁や桟橋をつないで数百キロもくねくねと続く船曳の小道だ。その上を数百年にもわたって、人夫たちの「ヘンヨー、ヘンヨー」という低く力強い船歌がこだましたのである。人夫たちの足で磨り減った石畳は、彼らの労苦の跡をしのばせるものだ。 黄土高原を流れる黄河でも、かつては船曳が盛んに行われた。そこでは、怒涛さかまく黄河を船で渡るため、船乗りたちはまず、力を合わせ船をロープで川上の方へと引き上げた。それから大きなかけ声とともに船を走らせ、流れにそって対岸へと渡した。このやわらかな黄土の上にも、深く刻まれた彼らの足跡を確かめることができる。 河川が多く、とりわけ浅瀬や急流が絶えない四川省では、「 頭」(船曳頭)と呼ばれるリーダーの役割がかかせない。弓のように腰を曲げ、船を曳く人夫たちに対して、先頭の船曳頭は河岸に沿って船を曳き、船上の舵取りと呼吸を合わせて、その進行方向に細心の注意を払う。後ろに続く人夫たちをリードして、道を選んで進むのである。 長江の三峡(西陵峡、巫峡、瞿塘峡)の両岸は、峻険な山々や懸崖絶壁が連なっている。ふんどし一つの船乗りたちが玉の汗をかきながら、力いっぱい船を曳くのだ。両岸にそびえる絶壁や岩の上には、延々と続く深い溝を目にすることができる。それは彼らが岩づたいに進む過程でできた、船曳作業の痕跡である。 「あわれな船曳、びっしょり濡れて、一歩進めば千滴の汗、両手でたぐる石の路」 昔はきわめて一般的だった船曳の仕事――。交通が発達した今日では、すでにほとんどお目にかかれなくなっている。しかし、日焼けしたたくましい体を弓のように曲げ、一歩ずつ着実に進む姿は、中国では「不屈の精神」を示すイメージとなっている。それはさまざまな芸術表現を通して、人々の記憶の中に刻まれているのである。 現在、船曳の仕事や船曳にまつわる多くの史跡は、長江三峡である四川省巫峡・大寧河と湖北省の神農渓、また陝西省北部・佳県の黄河のほとりなどで見ることができる。(2002年2月号より) |