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今に生きるキャラバン
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写真 文・魯忠民 |
中国の西南部にある雲南・貴州高原――。その険しい地形の中に、一本の曲がりくねった古道を見つけることができる。道に敷かれた石畳の上には馬蹄の跡が刻まれているが、それは数百年もの間、行き来したキャラバンの痕跡である。 キャラバンは昔、西南部山岳地帯の主な運送手段であった。ラバや馬などに荷を積んで運ぶ運送隊のことを言う。その形態は、暮らしの中でだんだんと作られていった。 雲南・貴州高原の交通の歴史には、もともと荷担ぎの人夫や駄馬が登場するだけだった。起源も古く、唐代になると、「駄」は計量単位の一つとなった。「唐の遠和年間に毎年、七百万駄の茶を輸送した」という記録も残る。 険しい山道を行かなければならなかったキャラバンは、古代の駅路を利用して、宿場で休み、駄馬のエサを補給した。交通の立ち遅れた時代には、駅路はいわば「高速道路」であった。古い交通法によれば、30キロに一つずつ宿場が設けられた。30キロとは、ラバや馬のちょうど一日の歩行距離である。昔は、雲南省昆明からミャンマーのバモーまで、1173キロの道のりを33日間で移動した。駅路には、宿場が点在していたという。 隊の中にはリーダーがいて、規則があった。紀律やタブー、分配制度も決められていた。大勢で、数年がかりの仕事を請け負う専業のキャラバンがあれば、少人数で随時結成するものもあった。駄馬が二、三十匹の小型のキャラバンがあれば、二、三百匹からなる大型のものもあった。 商人がキャラバンを雇ったら、その運賃は話し合いで決められた。それぞれのルートには、統一基準がなかったからだ。運賃は、その時点での穀物価格の影響を受けた。役人や商人らに雇われたとしても、生活が苦しく、地位も低かった馬追い人は、よく「脚力」、「馬脚子」(ともに人足のこと)と呼ばれて、さげすまれていた。 雲南省には、「行船走馬三分命」(船をこいでも、馬を追っても三分の命)ということわざがある。昔の中国では、劣悪な自然環境に多数の関所があったほか、山賊、匪賊が出没し、キャラバンの行く手を阻んだ。そのために、団体意識と行動がかかせないものとなり、それが彼らの伝統となった。信義や団結を誓い、約束ごとや規則を重んじ、馬たちを命のように慈しんだ。 言動の上でも、多くのタブーがあった。たとえば、「頭の上でカラスが鳴いたら、進まない」「神仏の加護を求めなければ、進まない」などだ。 うっそうとした密林に入ると、霧に覆われることがよくあった。そんな時、別の隊との正面衝突を避けるため、馬追い人たちは、高音域の民謡『吼山調』を朗々と歌い上げた。よく響くゆったりとした調べは、山々にこだましたものだという。 新中国成立後も、キャラバンは主な運送手段として残されていた。こんにちでは、交通の面でも現代化が進んでいるが、雲南省西部の怒江流域では今も、キャラバンが主な運送手段として使われている。(2002年3月号より) |