中国語も知らないままに中国でドラマに出演し、体当りで言葉を覚え、中国を理解してきた武藤美幸さん。誠実に自然体で中国と向き合う武藤さんの姿は、中国のお茶の間でも好評だ。そんな彼女に、中国への熱い思いを語ってもらった。
2005年の幕開け、初めての中国での年越しを、私は山東省の棗荘で迎えました。新作ドラマの撮影中だったんです。夜中の撮影は気温がマイナス十度の世界。動いてないとつま先が凍る、寒がりの私にはかなり過酷な現場でした。大好きな演技をしていたからこそ耐えられたけど、カメラがなければ逃げ出していたかも(笑)。
2004年5月、仕事も学校も決まってなかったのに北京に来ちゃいました。半年だけ生活できる貯金を抱えて。多くの人からなぜ来たのですか? と聞かれますが「自分の中国での可能性を信じたから」としか言えません。でも中国には「行動すれば何かが起きる!」そう思わせる独特の雰囲気があることは確かでした。そのことを初めて感じたのは、三年前の夏。まさか旅行先で中国ドラマの出演が決まるなんて思ってもみなかった…。
2001年夏、旅行で訪れた北京で中国ドラマ界の女王、楊陽監督と運命的な出会いをしました。「日本人が出演するドラマがあるが興味はないか?」中国連続テレビドラマ『記憶的証明』のことでした。監督が私に勧めた役は、第二次世界大戦時、お国のため愛する人のため、真っ直ぐに強く生きる女性医師宮崎美恵子。彼女の運命を聞いた私は共感と感動を覚え、気がついた時には涙を流していました。
外国で暮らした経験もなく、中国語が話せないことも忘れ、「演じたい!」と返事をしました。その日はちょうど8月15日。人生を大きく変えた一生忘れられない日です。『記憶的証明』は2004年12月に放映され、その年の中央電視台一チャンネル視聴率第一位を記録。一晩で一億人近くの人が『記憶的証明』を見たことに中国市場の大きさを改めて感じました。日本では考えられないことです。
北京で生活を始めてからすぐ、人や運に恵まれ、次々と中国ドラマの出演が決定しました。「中国で俳優をする」ことは「中国人と衣食住を共にする」ということ。中国の撮影スタイルは日本と違い、撮影中の二〜三カ月間、スタッフ役者が皆同じホテルで一緒に生活するんです。中国の人々が普段何を食べ、飲み、話し、どんな生活をしているのか、とても身近で知ることができます。文化の違いに戸惑うこともあるけど、中国を知るためには最高の勉強の場。周りはみんな先生。いろんな事が意識せずに身についていきます。また反対に、初めて接した日本人が私だったと言う人もいて、私を通して日本に興味を持ってもらえることがうれしい。
役者という職業を活かしブラウン管を通して、一般の人にも日本に興味を持つきっかけを作っていきたいと思います。日中友好という言葉は大げさに聞こえるかもしれないけれど、ほんの小さな一歩が大きな波を作り出します。相手の国の映画を見たり、音楽を聞いたり、これはもう友好だと思うんです。一つ一つの出会いを大切に、私に出来ることは何か、私にしかできないことは何か。考えながらも体当たり感覚を忘れずにやっていきたいです。
2005年は中国だけでなく、日本でも活動していきます。日本の人には中国の面白い部分をたくさん紹介していきたいと思っています。両国の架け橋になること。私のデッカイ夢です。(2005年04月号より)
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