1995年4月、中学校を卒業したばかりの幼い私は、8年間過ごした北京を離れ、上海の地に降り立ちました。長期間の北京生活で、すっかり中国に魅了されてしまい、「もっと中国にいたい! もっといろいろな都市に行ってみたい!」という気持ちが強く、憧れでもあった摩天楼都市・上海で高校に進学することに決めたのです。
今でこそ、高層ビルが林立する経済都市として世界から注目を浴びている上海ですが、当時は日本人の数が少なく、治安もあまりよくありませんでした。遊ぶ所ももちろんありません。遊び盛りの年頃だったことや、家族と離れていることが寂しかったりで、ストレスを感じ、不満を抱いた時期もありました。
そんなとき支えてくれたのが、当時通っていたインターナショナルハイスクールの「学友」たちでした。言葉も生活習慣も異なる彼らとの出会いが、その後の私の人生を大きく変えることになったのです。中国語も英語も全く出来なかった私は、周りの人たちとコミュニケーションをとるために、進んで「学ぼう」と努力しました。そこで得たものが「語学力」であり「コミュニケーション能力」であり「適応能力」でした。
その後、上海復旦大学の新聞学科に進学し、4年間、充実した大学生活を送りました。そして卒業が間近にせまった頃、「今、世界は中国だ! 上海で仕事がしたい!」という目標を見つけ、上海での就職活動を開始。卒業時には「JAL
上海支店」に無事入社が決まり、私は迷うことなく上海に留まることを決意しました。実はそのとき、一番喜んでくれたのは他の誰でもなく両親でした。恐らく私自身よりも喜んでくれたであろうと思います。
私は幼い頃から、「自分の道は自分で決める」などと偉そうなことを言って、本当に自分勝手にやってきました。両親は上海での就職を喜んでくれた反面、「またしばらく一緒に暮らせない」と思ったことでしょう。
幼い頃には気がつかなかった、両親の大切さや温かさ、偉大さを分かるようになっていた私は、遠地で見守ってくれている両親を想うと、上海に留まることに胸が痛くなりもしました。しかし「ここまで来たら前進あるのみ!」とかたく決心し、今日まで3年間やってきました。この「上海」という選択肢を私に与えてくれ、何よりも私の意思を尊重し続けてくれた両親には、本当に感謝しています。
「学友」や両親への感謝の気持ちをパワーに変えて、この上海の地で、これからもっともっと花を咲かせていきたいと強く思っています。(2006年10月号より)
|