私は中国語と苦闘していた。言葉が満足に通じないというのは不安なもので、精神的にも疲れた。そんなある日、周恩来総理が私たち一家を自宅に招いてくれることになった。
中南海の中にある周総理の住居兼執務室「西花庁」は、典型的な清朝の建築様式だった。門をくぐると庭で、いろいろな花が植えられていたが、なぜか海棠の木が印象にのこった。
豪華な建物に比べ、室内は驚くほど質素だった。白い壁はきれいに塗ってあったが、古いせいか、いく筋もの亀裂があった。木製のどこにでもあるテーブル、白いカバーのかかったソファーは、座るとギシギシ鳴った。カバーは洗濯したてのようで清潔だったが、よく見ると、ところどころツギ当てがしてあった。
緊張して待つこと数分。奥のドアーが静かに開いて、おかっぱ頭の年配のおばさんが茶器を持って入ってきた。洗い晒しの木綿の人民服、布靴、上着の袖口にはツギが当たっていた。どこにでもいるような中国のおばさんである。
「良くいらっしゃいました。恩来同志はすぐ参ります」
私はさすが周恩来家だなあ、と思った。お手伝いのおばさんは、質素だが物静かで、優しそうで、気品がある。それに周総理を「同志」と呼ぶのだ。そこへ周総理が入ってきた。
「やあー、よくいらっしゃいました。歓迎します」
写真で見る顔と同じであった。濃い眉、優しそうな目、黒い人民服と布靴。わたしの目には偉い指導者というより、優しいおじさんという風に映った。周総理はかたわらのお手伝いさんの肩に手をやり、少し前に押し出すと、
「紹介します。私の妻、ケ穎超同志です」と言うではないか。
私たちは周総理夫妻に昼食をご馳走になった。周総理は主にわたしの両親と話をしていたが、ケ穎超夫人は私と弟につききりだった。
「学校どうですか、困ったことがあれば担任の先生か校長先生に話しなさい。それでも解決しなければ、私に電話してください。どうするか一緒に考えましょう」
「私を中国の媽媽と思って、なんでも相談してくださいね」
「中国の友達をたくさん作ってください。将来、きっと役立ちますよ」
楽しい食事が終わると、ケ穎超夫人は小さな壺を持ってきた。
「みなさん漬物がお好きなようですね。これは私が漬けたものです。毎年漬けるのです。お口に合うか。でも今年のは会心の作なんですよ。よろしければ毎年お届けします」。
その時以来、我が家には毎年、漬物の季節になると、ケ穎超夫人から壺に入った漬物が、庭の花と共に届いた。私は夫人のことをケ媽媽と呼ぶようになった。ケ媽媽はときどき学校に電話してきて、私たちの様子をたずねたという。
後で聞いた話である。(2003年2月号より)
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