1962年9月、私は北京大学経済学部政治経済科の学生となった。もう言葉には心配なかったが、千倍以上という競争率を突破して、各地からやってきた超エリートたちに、果たしてついて行けるのか不安だった。
私は留学生寮に入った。ルームメートはクラス一の秀才だという柳君、出身は東北の長春だという。
私たち留学生を管理、世話するのは通称「リュウバン」と呼ばれる留学生弁公室(留弁)だった。いつも笑みを絶やさない麻主任以下7、8名のスタッフがいて、分担して各国の学生の面倒をみていた。私の係は三十代前半の陳先生だった。北京大学日本語科を出た才媛だ。
留弁の先生方の仕事ぶりには頭が下がった。陳先生は常々、留学生たちがしっかり勉強できる生活環境を整えるのが留弁の任務で、そのためにはどんな苦労もいとわないと言っていた。
さまざまな国の学生がいるので、文化の摩擦などトラブルも多い。寒さ、暑さに弱い学生もいるし、贅沢でわがままな学生もいる。勉強について行けない学生も出てくる。これらすべてを留弁が相談にのり、解決しなければならない。
入学して間もないある日の夜、時計はすでに十二時を回っていたが、私は突然気分が悪くなった。嘔吐、下痢、そして熱もでたようだった。朝まで我慢するしかないと私は思った。
あいにくこの日ルームメートは不在だった。ところが隣室の中国の学生が、私がひっきりなしにトイレに行くのを不思議に思ったのだろう、様子を見に来てくれた。これは大変だと、私が止めるのを振り切って、陳先生に電話をしてしまった。
まもなく陳先生が、私のクラスの男子学生を三人も引き連れて駆けつけてきた。私は毛布にくるまれ、学生に負ぶさって校内にある小さな病院に担ぎ込まれてしまった。
当直医と看護婦が看てくれたが、陳先生は「どうしてももう一人医師を呼べ」ときかない。「私で大丈夫ですよ」と当直医が言うのだが、陳先生は「もし診断が間違ったらどうするのか」と譲らない。結局、当直医は苦笑しながらもう一人の医師をたたき起こすことになってしまった。
陳先生は一人の学生に、学校の車を待機させるように指示した。ここで手に負えない場合、市内の大病院に私を連れてゆくためだ。もう一人の学生には、市内の病院に、あらかじめ連絡しておくように命じた。
幸いなことに私の病状は大したことなかった。注射を打ってもらい、抗生物質と大量の漢方薬をもらって、朝まで様子を見ることになった。私はまた学友に負ぶさって宿舎に帰った。
宿舎には新しい毛布が三枚運び込まれていて、熱いお湯がいっぱい入った三本の大きな魔法瓶が置いてあった。これも陳先生が学生に命じたに違いなかった。
眠くなる薬だったのか、私は間もなく寝入ってしまった。目が醒めると、外はもううっすらと明るくなっていた。私の額には冷たいタオルがのっていた。そして陳先生も、三人の学友もまだそこにいた。(2003年6月号より)
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