北京大学がある中関村は、いまでこそ「北京のシリコンバレー」と言われるIT最先端の街に発展しているが、私が在学していたころは、小さなひなびた、文字通り「村」といったほうがぴったりの地域だった。日干し煉瓦の家が並んでいて、路地裏にいくつか、雑貨屋やめし屋があるくらいで、夜は真っ暗になった。すぐ裏は畑だった。
路地裏の一角に、李さんの小さなめし屋はあった。剥げた看板には、かろうじて読める「小吃店」の文字。間口はせいぜい二間くらいだった。李さんは一人で切り盛りしていた。「年取ったよ、六十を越えて最近は腰も痛いしな」が口癖だった。
私は初め、学友に連れられて李さんの店に行った。その後は一人でも時々行くようになった。学生食堂は夜七時には閉まってしまうので、帰りが遅くなったりすると李さんの店ですませるのだ。
店には小さなテーブルが三つと、腰掛けるとギシギシいう丸椅子が七つ、八つ置いてあるだけ。メニューは炒め物とワンタン、それにトウモロコシ饅頭か、ネギがたっぷり入った焼餅(お焼きのようなもの)しかなかった。
「彼は日本人なんだよ」と友人が最初に紹介した時、李さんは無反応だった。私はほっとした。この年齢の中国人は、「日本」と聞くと身構える人が多いのだ。私と李さんはどこか気が合って、冗談を言うような間柄になった。「あんたら育ち盛りだ、いっぱい食べないとな」と、いつも盛りを多くしてくれ、他の客が文句を言うこともあった。
ある時、常連の一人が私に冗談で「おい日本鬼子(日本の鬼)、まじめに勉強やってるか」と言った。すると、いつもニコニコしている李さんが、形相を変えて怒り出し、叫んだ。「日本鬼子とはなんだ。あやまれ。彼は俺たちの友達だろうが」
ある日、私は外出して帰りが遅くなり、李さんの店に寄った。しかし店はもう閉まっていた。大学に戻る途中、李さんに出っくわした。「メシ食ったかい」と聞かれたので、「今日は食いっぱぐれました」と答えて別れた。
宿舎に戻り、お湯が出なくならないうちに急いでシャワーを浴びて、学友とおしゃべりしていた。すると門番のおじさんから電話が来た。「李という人が訪ねてきた」という。
誰だろうと門まで行くと、めし屋の李さんが立っていた。「ほら、これ、慌てて作ったんで、美味くないだろうが食ってくれよ。育ち盛りなんだからちゃんと食わないとだめだろうが」と、琺瑯の器を私に押し付け、逃げるように帰っていった。中には野菜炒めと饅頭が三つ、ゆで卵が一つ入っていた。まだ熱かった。
私は忙しく、なかなか器を李さんに返しに行けなかった。十日ほど経ったある日、李さんの訃報を聞いた。私は衝撃を受けた。もっとショックだったのは、日中戦争中、李さんは長春郊外でめし屋をやっていたが、身重の奥さんは、からかった日本兵に反抗し、殺されてしまったというのだ。
李さんの琺瑯を、私はいまでも大事にしている。(2003年9月号より)
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