私が北京大学に在学していたころ、大学の付近はほとんど商店もなく、静かだった。ある日の夕方、私は本を読みながら大学周辺を散歩していた。

 と、向こうから車椅子に乗った男の子がやってきた。10歳ぐらいか、付き添いはいないようだった。なんとなく気になってずっと見ていた。

 車椅子は一目で手製とわかった。車輪は自転車のを利用したのだろう。異様に大きかった。鉄の棒を渡して、その上に木製の頑丈な椅子を乗せ、針金でぐるぐる巻きにしてある。

 見るからに重そうだ。子供は必死に車輪を回している。汗が滴り落ちていた。

 私はあっと思った。車椅子がもう少し進むと、道が段差になっている。子どもの力で降りるのは無理だ。案の定、子供は段差のところで平衡を失い、車椅子は倒れてしまった。

 私は無意識のうちに駆け出していた。周辺にいた何人かも同時に駆け寄った。

 その時、「やめて!」と後ろで女の人の鋭い声がした。子供の母親がずっと後ろからついてきていたのだ。30歳後半くらいか、まだ若いのに髪は白髪まじりだった。その女の人はびっくりするほどの激しい口調で叫んだ。

 「小明、一人で起きなさい。人に頼らないで」

 そして私たちに向かって言った。

 「ありがとうございます。でも手を出さないで。この子はいずれ一人で生きてゆかなければならないのです。なんでも自分の力でやらせなければ、あとで苦労するのです」

 子供は必死で起き上がろうとして、何度も失敗して倒れた。それでも何回も挑戦し、やっと元に戻した。母親は顔の泥を拭いてやっただけで、また後ろに下がった。

 私は小明と友達になった。家は近くだった。時々、私は車椅子を押していっしょに散歩した。小明は近くの小学校の3年生、利発な子であった。

 「日本は鬼子(おに)の国だろう。お兄ちゃんみたいないい人もいるの」

 「鬼もい 驍ッど、いい人もいっぱいいるよ。大きくなったら遊びにきなよ」

 「ぼく足が悪いけどいけるかなあ。おとうさん、おかあさん、いいって言うかなあ」

 しばらくして、小明の住んでいた地域は区画整理のため、住宅は取り壊しが決定した。住民は別の地域に移ることになった。

 そんなある日の夕方、門衛さんから連絡が入った。車椅子の子供が私を訪ねてきているという。私は補習のためこの日は宿舎に戻るのが遅くなった。小明は門の前で2時間も待ったという。

 「お兄ちゃん、ぼく明日、引っ越しするの。遠くなんだ。もう来られないよ。はい、これ。僕が作ったんだ」

 小明が差し出した手には小さなハンカチが握られていた。そこには私と小明が手をつないだ刺繍がしてあった。2003年10月号より

 

 

 

 

【略歴】西園寺一晃
1942年、東京生まれ。58年、「民間大使」といわれた西園寺公一氏とともに一家をあげて北京に移住。北京市第25中学初級部三年入学、62年、北京大学経済学部政治経済科入学。北京大学四年在学中に文化大革命勃発。67年、北京大学政治経済科卒業。71年、朝日新聞東京本社入社、中国アジア調査会、平和問題調査室、調査研究室、文化企画局、総合研究センター主任研究員などを経て、2002年10月、定年退職。
現在、日中友好協会全国本部参与、東京都日中友好協会副会長、北京大学日本研究センター在外研究員。主な著書に「青春の北京」(中央公論社)、「中国辺境をゆく」(日本交通公社出版局)、「ケ穎超」(潮出版社)など。