10年も中国に暮らしていれば、いろいろなことがある。多くの良き友人に恵まれ、楽しい学生生活を送ったが、もちろん不愉快なこともあった。その一つがパスポート「紛失」事件である。
1968年といえば、「文革」の真最中である。私は前の年に、北京大学を無事卒業した。いったん日本に戻り、その年に再び短期の予定で北京にやってきた。
父はまだ中国に残っていた。「文革」は三年目に入り、各地で混乱が起きていた。北京の王府井大街に「西園寺は日本の特務」という、父を攻撃した大字報(壁新聞)が出たが、周恩来総理の命令ですぐ取り除かれたと聞いた。「外国人には一切手を出すな」――それが大方針だった。
ある日、中国側のパスポート係りのGがやってきて「パスポートを預かります」という。前々から彼とは仲良しで、卓球などして良く遊んだので、私は何の疑いもなく、パスポートを預けた。
そして問題が起きた。Gが消えたのである。家族が騒ぎ出し、職場の上司、同僚が慌てた。当時、彼の職場の造反組織は二つに割れていた。その混乱を彼は利用した。調べてみると、私のパスポートと、部外秘の書類がなくなっていた。このことはすぐ周恩来総理に報告された。
次の日、全ての空港が閉鎖された。周恩来総理の命令だった。なにせ「文革」中である。日本はじめ外国の新聞は色めき立った。「中国で内戦か? 全空港閉鎖」――これは当時の日本のある新聞の見出しである。
中国はすごい、と思ったのは、その行動の素早さであった。職場の二つの造反組織は休戦し、協力してGの後を追った。警察、軍、国務院の協力体制は「文革」中とは思えない緊密さであった。周恩来総理の力だった。
しかし、一歩遅かった。空港閉鎖の一時間前に、Gは北京空港を飛び立っていた。私のパスポートの写真を剥がし、自分の写真を貼り、「西園寺一晃」になりすましていた。
行き先はダッカ経由カイロだった。中国は外交ルートでパキスタン当局にGの拘留を申し入れたが、飛行機はすでにダッカを離陸していた。
カイロでGは、エジプト当局に身柄を押さえられた。Gはソ連亡命の希望を表明した。当時は中ソ対立の時代である。中ソともGの引渡しをエジプトに求めた。板ばさみになったエジプトは、Gを収監し、中ソどちらにも引き渡さなかった。
私は中国と日本の外務当局の特別配慮で、中国を船で出て、日本上陸前に船上でパスポートの発行を受けた。国交がまだ回復していなかった両国の外務省が、間接的とはいえ、こういう形で「協力」したことは、当時、誰も知らなかった。
20数年後のある日、私は突然、Gから電話をもらった。「当時は本当に申し訳ないことをした。いま日本に来ているので会って欲しい」と言う。
彼はドイツ籍になっていた。大学で中国文学を教えているという。「ドイツと中国の友好に尽くしたい」と頭を下げる彼を見て、私は複雑な気持ちだったが、少しだけ救われた気がした。そして、さし出された彼の手を握った。(2003年11月号より)
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