1937年12月、南京を占領し、悪名高い「南京大虐殺」を行った日本侵略軍は、その後、華北、華東の広大な国土を踏みにじった。彼らはいたるところで中国の軍隊、人民の頑強な抵抗に遭いながらも、いたるところでわが同胞を殺りくする無数の事件を引き起こした。
1937年11月、日本軍は山東省西北地区を占領した。同地区の中国共産党組織は党の抗日民族統一戦線政策を全面的に実行し、愛国将領范築先を説得して抗日戦争に協力させた。
1938年11月中旬、山東駐屯の日本軍第114師団は、済南、禹城、徳州の三方面から同省西北地区に進攻した。済南の日本軍は15日、軍用機2機の掩護のもとに聊城に攻撃をかけた。范築先は、部隊の先頭に立って勇敢に戦ったが、壮烈な戦死をとげ、聊城は陥落した。17日、日本軍は臨清を占領した。18日午後、臨清駐屯の日本軍兵士20余人が、衛運河沿いに舟艇で館陶県孟口の偵察、撹乱に赴いたところ、尖荘で范築先の残存部隊の兵士30人余りの待ち伏せをくい、4人は運河に飛び込んで逃げたが、16人が射殺された。
日本軍は報復のため、19日午前、臨清から二、三百人の部隊を出動させた。彼らはトラック16台、装甲車4台に分乗して、突然尖荘に襲いかかった。それを知った村民たちは、ぞくぞくと村から逃げ出した。しかし、村はずれで日本軍とぶつかってしまった。日本軍は機関銃と歩兵銃を気違いのように村民たちに向けて乱射し、あたりはたちまち死体でいっぱいとなった。日本軍の集中砲火に行く手をはばまれた村民たちの一部は、また村にもどった。すると、車に分乗した日本軍が、東、北、南の三方から村を包囲し、姿を見せた村民はすべて射殺し、家という家はすべて焼き払い、村全体が天までとどく火煙に包まれた。逃げ場を失った村民たちは露地に追い込まれ、機銃掃射を浴びせられ、まだ息の根のあるものは銃剣で刺し殺された。木の上で刺し殺されたものもおれば、塀の上で殺されたものもいた。
趙習田さんの身ごもった妻は、銃剣で刺し殺され、胎児と腸が地べたに流れ出た。そのとき、露地は血に染まった。村民の谷東陽さんと趙峰さんの家族8人は、ひと部屋に閉じ込められ、生きたまま焼き殺された。カトリック教会に隠れていた人びとも引きずり出され、針金でつながれて通りにひっぱって行かれ、ガソリンをかけて焼き殺された。狂気じみた日本軍は、死体を塀の上に並べて火をつけるといったひどいことまでした。
悪逆無道な日本軍は、尖荘で3時間余りにわたって焼き尽くし、殺し尽くす暴行を働き、罪のない人びとを367人も殺した。そのうち4軒の農家は家族全員が殺された。そして7人が重傷を負い、両親を殺され孤児となった嬰児が2人もいた。また家畜13頭が焼き殺され、2000間を超す家屋が焼かれた。
河北省北部に、潘家峪という景色のよい、のどかな寒村があった。抗日戦争ぽっ発後、村民たちは家郷を守るため、自分たちの抗日武装集団を組織した。村民たちのなかには原始的な武器を手にしたものもおれば、徒手空拳で侵略者に立ちむかうものもいた。村民たちはかいらい政権をつくろうとせず、日本軍側にびた一文、一粒の食糧、一本の飼い葉すら渡したことがなかった。そして、河北省東部分区の八路軍重要機関と兵士たちを守るのに最善を尽くした。
抗日戦争が始まってから1940年までに、日本軍は138回も村の討伐にやって来た。潘家峪の報国隊は、村はずれで54回も日本軍と戦い、けっして屈しなかった。日本軍は頑強に抵抗するこの村に手を焼いた。1941年の旧正月を前に、日本軍を避けて山中に隠れていた村人たちが村にもどってきた。1月25日、唐山、豊潤、?県、遵化、遷安、盧竜など16の拠点に駐屯していた3000余人の日本軍と2000人のかいらい軍が、払暁の暗闇に乗じてこの村を完全に包囲した。夜が明けると、日本軍は村に入って一軒一軒捜索し、村民1300余人を村の西側の窪地に追い込んだ。村人たちは怒りに燃えた眼で日本軍をにらみつけた。日本軍の指揮官佐々木は「日支親善」、「共存共栄」など日本軍がよく使っていた美辞麗句をならべたてたあと、「どいつが八路軍か白状しろ」、「八路軍の本部はどこにあるのか」と詰め寄った。みな黙ったままだった。何時間かが過ぎても、日本軍を迎えたのは沈黙と怒りにみちた視線でしかなかった。
日本軍は村人たちを銃剣で囲まれた細かい通路を通らせ、潘家の庭に集めた。先頭を歩いていた村人が、庭に松の枝と柴が山のように積まれ、その上に灯油がまかれているのに気づいた。日本軍はここで自分たちを殺そうとしている――敵のこの計略を見抜いた村人たちは、声をあげながら庭の外へ逃げだそうとした。しかし、すでに手遅れだった。日本軍は軍刀や銃剣を振りかざし、20人余りの村人が血だらけになって倒れた。残ったものは庭の中に追いやられた。そこは地主の邸宅の庭で、周囲は高さ3メートルもの塀で囲まれ、塀の上には日本兵がいっぱいだった。屋根や屋根つきの通路には機関銃が据えられていた。日本軍は村人たちを再び家の中に追い込もうとした。そのとき、誰かが「おい、みんな、奴らはわしらをみな殺しにしようとしている。奴らとたたかうのだ」と叫んだ。村人たちはただちにこん棒、スコップを手にとり、レンガをつかんで敵とたたかい、血路を切り開こうとした。そのとき機関銃が火を吹き、人びとはばたばたと倒れた。それでも、後ろにいた人たちは前へ出ようとした。敵は庭の棚に火をつけた。銃弾が飛び交い、煙がもうもうと立ちこめ、火柱があがった。村人たちは弾雨と火の海の中で、なん度も出口へと押し寄せた。だが、多くの人たちは火の海の中でむざんな死をとげた。この大殺りくで、村じゅうの1230余人が殺され、96人が負傷し、部屋数にして1300間余りの家が焼かれた。だが、潘家峪の人民は、日本軍の血なまぐさい弾圧に恐れおののき、腰を抜かすようなことはなかった。中国人民も、そうだった。彼らは、前のものが倒れれば後のものが立ち上がって勇敢にたたかい、ついに中華民族の完全な解放をかちとったのである。
「北京週報」より 2005/09/02
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