血で書かれた歴史――「南京大虐殺」

中華日本学会常務副会長 駱為竜

「南京大虐殺」は、第二次世界大戦における日本軍国主義の戦争暴行の中でも最も残虐で、人びとを憤激させる重大な事件であった。「前事を忘れざるは後事の師なり」という。この時期の歴史を正しく理解、認識し、その中から有益な教訓を汲み取り、中日友好を妨げるものを除去することには、極めて重要な意義がある。

中国を侵略した日本軍が、当時の首都南京で行った大虐殺は、少数の軍人による「自然発生的な規律違反行為」ではなく、計画的、組織的な軍事行動であった。日本軍は1937年7月7日に全面的な中国侵略戦争を起こしてから、華北(中国北部地区)に増兵し、侵略を拡大すると同時に、口実をもうけてたびたび上海に増兵し、淞滬(呉淞・上海)地区に対する進攻を開始した。同年7月17日、上海駐留の日本海軍第三艦隊司令官長谷川清は、海軍軍令部への報告書の中で「もし戦域を制限すれば、敵側兵力の集中に有利となり、わが軍の作戦行動が困難になることを深く恐れる……。中国の死命を制するためには、上海、南京を制することが最も重要である」と述べた。日本軍は上海を占領してから、中国侵略の鼻いきがさらに荒くなった。

10月24日の御前会議で、陸軍参謀総長は、上奏した作戦計画の中で、上海周辺でおさめた勝利に乗じて機を逸せず果敢に追撃し、南京に進攻することを進言した。当時華中方面軍司令官だった松井石根は日記に「余、つつしみて大命を奉じ、聖旨のあるところを察し、破邪顕正の宝剣をもって馬謖を斬らん」と書いた。同年12月、松井が自ら起草した「南京攻略要綱」は、掃討作戦に関する具体的措置を次のように定めた。「①もし南京の守備司令官あるいは市政当局が城内に残るなら、開城を勧告し、平和的にそれを占領する。そのあと、各師団はそれぞれ歩兵一個大隊を選抜し、それを中堅として先に城内に進入させ、区を分けて城内を掃討する。②もし敵の残存部隊が城壁を利用してかたくなに抵抗を続けるなら、戦場に到着したあらゆる砲兵でもって砲撃したうえで城壁を奪取、占領する。そのあと、各師団は歩兵一個連隊を基幹として城内を掃討する」。この作戦指導要綱のいわんとするところは、極めて明確である。つまり、中国の守備軍が降伏しようと、あるいは抵抗しようと、日本軍は必ず掃討するということである。いわゆる「掃討」とは、野蛮にも殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす「三光」政策を遂行することであった。

日本軍当局は12月1日、南京攻略命令を発した。翌日、松井石根が兼任していた上海派遣軍指令官の職務をはずし、朝香宮鳩彦王を司令官に任命した。華中方面軍はコースを分けて南京に肉薄した。華中方面軍所属の部隊は、そのほとんどが南京攻略作戦に参加した。数十万の中国軍民がまもなく日本軍に包囲され、南京城から脱出できなくなる状況を知った上海派遣軍司令部は、すぐに「捕虜は全部殺せ」という秘密命令を下した。南京作戦に直接参加した日本軍将兵が戦後供述した状況から見て、軍団、師団から旅団、連隊に至るまでの各級部隊はこの命令を受領するとともに、それを実行に移した。第十軍団第六師団の高級副官、岡力中佐は、部隊が昆侖山に向けて前進している途中、「婦女子を問わず、支那人でさえあればすべて殺し、家屋は全部焼き払え」という命令が師団司令部に届いたと語った。この指示に基づいて、日本軍は南京占領後、放火、殺人、婦女暴行、略奪など、なんでもやった。

英「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者ティンバレーは、見聞した事実を『外国人の目撃した日本軍の暴行』という本にまとめた。それには次のように書かれている。

「日本軍はいたるところに放火すると同時に、気ちがいじみた強奪を行った。城外から城内へと、また城内の隅々から難民区においてまで略奪を行い、日本軍の行くところ、略奪の行われないところはなかった。占領されたものであれ、まだ占領されていないものであれ、大きな家も小さな家も、中国人のものも外国人居住者のものも、全市のすべての個人住宅が日本軍に略奪された。略奪は、12月上旬から翌年2月まで2カ月に及んだ」。

日本軍が中国の軍民を虐殺した規模の大きさ、手段の残酷さは、いずれも人類史上まれなものだった。彼らはすでに武器を捨てた大量の捕虜を殺したばかりでなく、罪のない市民を残酷に逮捕、殺害し、機関銃で掃射し、ガソリンをかけて焼却し、銃剣で刺すなど、次から次へと多くの人を集団的に虐殺してから、死体を焼き、現場を破壊した。彼らはまた捕虜を捜査することを口実に、民家に乱入して婦女暴行、殺人、放火を行った。極東国際軍事法廷の調査によると、南京で起きた日本軍の婦女暴行事件は少なくとも2万件とされている。日本軍が南京に入城したあと、老若を問わず、婦女でありさえすれば、たとえ7、80歳の老女であれ、あるいは8、9歳の幼女であれ、彼らに見つかったら、絶対に逃れられず、多くの女性は暴行されたのち殺された。当時、南京駐在のドイツ大使館が本国に送った、南京における日本軍の大虐殺に関する報告ですら、「日本軍は残虐非道で凶悪きわまりなく」、「南京は死屍るいるいとして山をなし、身の毛がよだつほどだ」、日本軍はまるで「獣の集団」のようだと述べていた。

戦後、戦勝11カ国で構成された極東国際軍事法廷では、中国を侵略した日本軍が南京で全世界を驚倒させる虐殺、婦女暴行、放火、略奪を行い、集団で虐殺されたもの19万人以上、個々に虐殺されたもの15万人余で、被害者数は30万人以上に達したことが明らかにされた。

東京の『日日新聞』は1937年12月、日本軍少尉の野田毅と向井敏明が江蘇省の句容を攻略したとき、百人斬りの「殺人競争」を行ったという記事を載せた。この二人の日本軍人は、老若男女を問わず、人を見つけると殺し、野田は105人を殺し、向井は106人を殺した。しかし、どちらが先に百人斬りの目標を達成したのか定かでなかった。そこで、二人はさらに150人斬りの殺人競争を続けた。こうした残酷非道な罪行が、こともあろうに新聞で賞賛され、吹聴され、二人の下手人が軍刀を持っている写真が大きく掲載され、彼らの「雄々しさ」が称えられたのである。イギリス人記者のティンバレーはその著『外国人の目撃した日本軍の暴行』の中で、「日本軍の犯したさまざまな罪は、勝利に酔い痴れて常態を失ったからであろうか、それとも日本軍当局がとった計画的な恐怖政策であったのか。事実に基づいて判断すると、後者の可能性のほうが強い……」と書いている。中国を侵略した日本軍が6週間あまりにわたって南京で行った血なまぐさい大虐殺で数十万人が殺されたことは明白であり、しかも、殺されたのは身に寸鉄を帯びない民衆と捕虜ばかりだった。それでも、日本軍は一定の兵力を出動させなくてはならず、とくに1万人ほどの人びとをなんどか一定の地点に集め、みな殺しにしたのである。司令部の指令、配置がなかったら、これほど長期にわたる大規模な大虐殺は不可能であっただろう。

日本の中国侵略史上最も重大な犯罪行動であった南京大虐殺から、すでに58年が過ぎ去った。だが、日本ではいまなお、ひとにぎりの人が、中国を侵略した日本の犯罪の歴史をなんとかして改ざんし、両手を中国人民の鮮血でぬらした戦争犯罪者の犯罪事実を覆そうと企んでいる。だが、南京大虐殺というこの歴史的残虐事件は、動かせぬ証拠が山のようにあり、判決を覆すことは絶対に不可能である。中国人民は、血で書き上げられたこの歴史を永久に忘れない。

歴史の事実はこう教えている――人民は想像しがたい苦難も耐えられるが、暴力には決して屈しない。いかなる国、集団といえども、武力を盲信して恐怖、威嚇、虐殺などの手段で独力国家の人民に圧力をかけ、正義にそむく政治的、軍事的目的を達成しようと企めば、すべて失敗することに決まっている。

「北京週報」より 2005/09/02