抗日戦争の発端となった蘆溝橋事変

中国人民抗日戦争記念館館員 王逸彦

「9・18」事変(1931年9月18日)を引き起こした日本帝国主義は、中国東北の3省を占領したのにつづいて熱河を占領し、長城一帯に迫ったが、中国第29軍などの頑強な抵抗に遭った。しかし、当時の国民党政府は無抵抗政策をとり、日本侵略軍と「塘沽協定」「何応欽梅津協定」など、主権と国威を失い、国を辱める条約を次々と結んだ。日本帝国主義は、いわゆる「華北開発」の名目で天津に「華北駐屯軍司令部」を設置し、華北地区の各鉄道沿線にも日本軍隊を配備した。北平(現在の北京)郊外の豊台、通県などにも日本軍が駐屯し、日本軍は北平周辺で包囲態勢をつくり上げていた。当時、北平の近くを守っていた中国の軍隊は愛国の、ほまれ高い第29軍だった。

1936年の夏から、日本軍は北平の西郊外で、しきりに演習を実施し始めた。日本軍の歩兵、騎兵、砲兵、装甲兵などの各兵種は通県から出発し、北平市を経由して演習地点に向かい、沿道で天下無敵の武力を誇示した。これに憤激しない市民はいなかった。同年秋、「9・18」事変5周年を迎えるにあたって、豊台で演習を行っていた日本軍の一中隊が、中国軍の防衛線を通り抜けようとしたところ中国軍に阻止され、ついに衝突が起こった。双方は、係官を派遣して調停し、事態の拡大を抑えた。だが、日本軍はこれを口実に、豊台に増兵し、さらに兵舎不足を理由に、豊台と蘆溝橋との中間にある大井、五里店一帯で土地を収用し、兵舎と飛行場を建設しようとした。日本軍はまず、北平市政府、宛平県政府とたびたび交渉し、要求を出したものの、いずれも拒否された。つづいて、日本軍は大金を投じて農民の耕地を買いとろうとしたが、それも失敗したため、紛争を挑発しようと企んだ。

宛平城の中国駐屯軍は、第29軍37師団110旅団219連隊3大隊だった。1937年7月6日、豊台に駐屯していた日本軍は、宛平城を通って、長辛店地区に行って演習を行うことを要求したが、中国駐屯軍に拒否された。翌日、日本軍の演習がいつもと異なり、完全に実弾を装填していると感じた中国軍の何基ほう旅団長は、日本軍の行為を注意深く監視するよう命じ、もし日本軍が挑発したら、断固として反撃するよう全将兵に命令した。

7月7日午後7時30分、日本軍は、蘆溝橋の北の竜王廟のあたりで、蘆溝橋を仮想攻撃目標として演習を行った。夜11時ごろ、宛平城の東で、突如数発の銃声が聞こえ、中国軍は警戒を強めた。深夜12時、日本軍は、演習中に兵士一名が行方不明となったことを理由に、宛平城に入って捜索することを要求したが、中国軍に拒否された。そのとき、激しい銃砲の発射音がひびき、一発の砲弾が宛平専署の広間に命中した。日本軍はわが方の陣地に殺到し、守備軍は敵に猛烈な反撃を加えた。深夜2時、日本軍は、①双方は射撃を停止し、各自の死傷者を戦場から運び出す、②夜が明けたら、双方は人員を派遣して行方不明となった日本兵を探す――の2点を提案してきた。

翌朝6時頃、日本側は、冀察(河北・チャハル)政務委員会顧問の桜井、日本特務機関部補佐官の寺平、秘書の斉藤と一人の同行者を派遣し、わが方の代表の冀察政務委員会専員の林耕宇、冀察綏署交通処副処長の周永業、河北省行政督察専員兼宛平県県長の王冷斎と交渉した。交渉が行き詰まっているところに、突然、宛平城の東門の外で激しい銃声が響き、つづいて西門の外でも大砲や機関銃の音がとどろいた。中国の守備軍は、正当防衛のために奮い立って、抵抗した。第29軍司令部は、全将兵に断固として抵抗し、「蘆溝橋を自らの墓場とし、蘆溝橋と存亡を共にし、後退してはならない」との命令を下した。戦闘開始後まもなく、蘆溝鉄道橋とその近くの竜王廟などは、日本軍に占拠された。8日午後、中国軍は、長辛店の北と八宝山の南から日本軍に反撃を加え、敵と白兵戦をまじえ、ついに鉄道橋と竜王廟などを奪回した。

9日午前4時、日本の松井機関長は、行方不明となっていた日本兵はすでに帰隊し、平和的解決が可能であるといい出した。双方は停戦と共同撤兵で合意に達した。ところが実際には、これは、日本軍の戦備を調えるまでの時間かせぎであり、撤退した兵士は、蘆溝橋近くの鉄道の排水用トンネルに隠れていた。10日、日本軍は、天津、古北口、楡関などから、ぞくぞくと増派されてきた。11日から、日本軍は、宛平城とその近くに猛砲撃を加え、城内の住民に多くの死傷者が出た。中国守備軍の連隊長吉星文、大隊長金振中も負傷した。戦闘は宛平城から八宝山、長辛店、廊坊、楊村、南宛などに広がった。7月28日、中日双方の交渉は決裂し、中国軍第29軍副軍長兼軍官訓練旅団長のとう麟閣将軍、第132師団長の趙登禹将軍は、南宛の戦闘中に英雄的な戦死をとげた。29日、日本軍は北平を占領し、30日には天津を占領した。

蘆溝橋事変発生後、中国共産党中央委員会は直ちに、全国向けに抗戦をよびかける宣言を発表した。宣言は、「全国の同胞諸君、北平、天津が危ない。華北が危ない。中華民族が危ない。全民族の抗戦以外に、われわれの活路はない」と述べていた。多くの国民党の愛国将領も通電を出し、前線に赴いて抗戦に参加するよう要求した。また、海外の華僑団体は、出兵して祖国を守ることを、電報で南京国民党政府に要請した。

蘆溝橋の砲声は、全中華民族抗戦の序幕を切って落とし、全面的抗日戦争はそこから始まった。

「北京週報」より 2005/09/02