歴史の荒波をくぐりぬけて② 「首鋼」とともに
 
定年退職した劉慧さん一家

現在72歳の劉慧さんは、17歳で首都鉄鋼にボイラーマンとして入り、工場の構内を走る蒸気機関車で缶を焚いた。後に、兵役で工場を出たが、復員後、再び首都鉄鋼に戻り、行政の仕事に従事した。劉さん一家は、妻と息子、娘の4人暮らし。みな、首都鉄鋼で働いている。

1953年、劉さんが働き始めたころは、まだ石景山鉄鋼廠のころで、銑鉄を生産しているだけだった。廠内には一面に赤い粉塵が漂っていた、というのが劉さんの最初の印象だった。工場の建物も鉄道車両も労働者の衣服や顔も、樹の上の雀さえみな真っ赤であった。

劉さんの妻、高淑芬さんは当時を思い出しながらこう言った。

「毎日、家から自転車で鉄鋼工場に通っていましたが、ずっと遠くから工場を眺めると、その一帯が黒いナベの蓋で覆われているように見えました。近づくと、どの工場からも、赤い煙や青い煙、灰色の煙が噴出し、白い蒸気といっしょにかき混ぜられていました。当時は毎日そこで仕事をしていて、慣れっこになっていたので、汚染というような考えはありませんでした」

首都鉄鋼の生産の発展につれて、資源と環境の問題が顕在化してきた。とりわけ首都鉄鋼は、北京の風上にあり、粉塵は市街地に吹き込む。そのうえ北京の水資源自体も不足している。こうした要素が首都鉄鋼に、各種の省エネ、環境保護の産業発展を促した。

石景山にある首都鉄鋼の従業員住宅

70年代、時の首都鉄鋼の指導者だった周冠五氏は日本を視察した。そのとき見た日本の製鉄所の高炉周辺には、草花が植えられており、労働者たちは白い手袋をはめていた。負けず嫌いな周氏は、首都鉄鋼も日本のような製鉄所にするぞ、と決意したという。

劉慧さんは言う。「しかし当時、多くの人は理解しなかった。『そんなことはできない』と言ったり、『そんな必要はない』と言ったりした。だが今から見れば、環境保護はやっぱり正しい」

例えば、製鉄の過程で出てくるスラグ(鉱滓)は、以前のやり方では空地に廃棄物として積み上げられていた。が、今は首都鉄鋼の高炉から排出される鉄のスラグを水の中に入れる。そして固まったスラグにハイテク処理を加えて、琉璃河セメント工場にトラックで運び、セメントの原料にしている。スラグを水に入れるときに発生する大量の蒸気は濾過されて、首都鉄鋼の住宅に冬季の暖房用として提供され、多くのエネルギーが節約される。

劉さんは何度も感慨を込めてこう言うのだ。「私は50年代の首都鉄鋼の姿を見てきたので、首都鉄鋼が環境や省エネの面で大変努力してきたことを知っています。製鉄所がまったく灰塵を飛ばさないというのは難しい。いま、首都鉄鋼はすでに、高炉の下には草も花もあるし、構内には湖があって、毎年、カモの群れが飛来して越冬する。昔とは天と地の違いです」

大きな変化は、首都鉄鋼で働く人々の生活にも起こった。50年代から70年代にかけて、劉さんの賃金はほとんど変わらなかったが、80年代になると、首都鉄鋼は大いに発展し、ここで働く人々は、この時期のことを楽しそうに話すのである。

首都鉄鋼の従業員たちによる社交ダンスのコンクール(首都鉄鋼提供)

「普通の労働者にとってもっとも関心のあるのは日常生活です」と劉さんは言う。首都鉄鋼は改革後、労働者の賃金が数十元から急に数百元、さらに1000元以上に跳ね上がった。全国的に見て、高い方である。会社は副食品管理所を設立し、各地の企業と共同経営に乗り出した。例えば、「貴州マオタイ酒」と共同で工場を運営し、利潤を分ける時には、マオタイ酒をもらい、それを労働者に配った。このほか首都鉄鋼は自分で扇風機工場、アパレル工場、パン工場などを経営し、その製品をきわめて安く労働者たちに提供して、それを福祉に組み入れた。

こうした首都鉄鋼の、何でも必要なものは自分でつくるという考え方は、今から見ればおかしい。しかし当時、こうした自給自足の状態を、首都鉄鋼の労働者たちは誇らしく感じた。例えば、80年代末の北京は、多くの市民の家庭に冷蔵庫はなかった。しかし劉さんの家にはすでに、大きな冷蔵庫と冷凍庫があった。時には、余った副食品を親戚の家に届け、喜ばれた。こうしたことは、面子の立つことだった。

こうした状況は、1995年になってまた変化した。首都鉄鋼は、近代的な企業制度を打ち立てることを目標に、首都鉄鋼集団を組織し、住宅制度や労働者雇用制度、社会保障制度などの一連の改革を行った。これによっては、企業管理と経営のメカニズムを市場経済の発展の要求に適応させたのである。

人民中国インターネット版

 
 本社:中国北京西城区車公荘大街3号
 人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。