靖国神社に祀られるA級戦犯:板垣征四郎
板垣征四郎は士官の家に生まれ、1904年10月に東京陸軍士官学校を卒業、1913年に日本陸軍大学へ進学する。
1917年から1919年まで、板垣征四郎は参謀本部部員を務め、中国へ派遣されて特務活動に従事した。1922年より、日本参謀本部中国課課員となって、さらに頻繁に中国へ出入国するようになり、中国侵略の陰謀活動に従事し、中国各地へ足跡を残した。板垣は長期にわたって中国へ出入りし、陰謀活動に携わったことから、土肥原賢二や磯谷廉介と共に、日本陸軍における三大「中国通」と呼ばれた。
板垣征四郎は、日本関東軍と東北三省の中国軍との衝突は避けられないと見て、関東軍の先制攻撃を強く主張した。このため、1930年6月より、板垣はいわゆる「参謀旅行」を開始し、ハルビン、錦州、旅順等に対する徹底調査を行った。1931年3月、板垣は日本陸軍歩兵学校で「軍事上から見た満蒙」と題する演説を行い、中国東北地区は日本の「国防の第一線」であるとし、中国東北地区の占領をぶち上げた。5月29日、部隊長会議の席で、彼は再び「満蒙問題について」と題する演説を行い、中国東北地区およびモンゴルへの出兵と侵略をさらに訴え、これを日本の「当面の急務」であるとした。6月19日、日本陸軍省と参謀本部は「満蒙問題解決方策大綱」をまとめた。本計画では、翌年春に軍事行動をとるとされていたが、関東軍参謀部は満蒙対策に直ちに着手し、「自ら仕掛ける」必要があると主張した。日本軍部の支持を受けて、板垣征四郎と石原莞爾は詳細な計画と手筈を整え、奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを口実に奉天へ出兵、さらに中国東北三省を占領することを決定した。1931年9月18日夜10時頃、関東軍南満鉄道守備隊柳条湖分遣隊は、本庄繁関東軍司令官の密令により、奉天北郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破。その後、中国軍が線路を破壊し、日本軍を襲撃したように装った。11時頃、日本軍は大挙して中国東北軍の駐屯地である「北大営」へ進攻し、中外を震撼させる「九・一八事変」(満洲事変)が勃発。日本軍国主義はここから一歩一歩、全面的な中国侵略戦争への道を進み始めた。
1932年8月8日、板垣は陸軍少将へ昇進し、「偽満州国」の執政顧問へ就任した。1934年8月1日、「偽満州国」軍政部最高顧問となり、1936年3月23日に関東軍参謀長へ昇進する。
1938年6月3日より、板垣は近衛内閣の陸軍大臣となる。1939年1月5日から8月30日まで、平沼騏一郎内閣の陸軍大臣と対満事務局総裁を兼任。内閣会議で、板垣は中国侵略戦争を拡大し、中国国民政府を打倒して、代わりに傀儡政権を樹立せよと強硬に主張した。また日本とドイツ、イタリア等のファシスト国家との軍事同盟強化を提唱し、対ソ戦争を積極的に画策した。1939年2月、板垣は陸軍省の名で「支那事変地より帰還する軍隊および軍人の言論指導取締に関する件」という命令を出し、帰国した日本軍将兵が中国における日本軍の暴行を言い立てることを禁止した。
1939年9月4日、板垣は支那派遣軍総参謀長に任命され、引き続き中国侵略戦争の指揮に携わった。1945年4月7日、板垣は第7方面軍司令官となり、司令部をシンガポールに置いて、オランダ領東インドおよびマレーア等における同盟軍の作戦を指揮した。8月15日、日本は無条件降伏を宣言。9月、板垣は第7方面軍を率いて、シンガポールでイギリス軍に投降する。
板垣征四郎はイギリス軍への投降後、駐シンガポール司令官のスミスを買収し、偽名を使って裁判を逃れ、命拾いをしようと企んだ。しかし彼は日本ファシストの重要軍事指導者の一人として、日本の侵略戦争において重要な役割を演じ、重大な罪を犯した。中国軍の申し出を受けて、1945年12月、駐日同盟軍本部は板垣征四郎を逮捕し、専用機でシンガポールから東京へ護送して、裁判にかけるため巣鴨プリズンへ収容する命令を下した。1948年11月12日、極東国際軍事裁判は板垣をA級戦犯として、絞首刑に処す判決を下した。12月23日、板垣は東京巣鴨プリズンの処刑室で絞首台へ送られた。
「人民網日本語版」
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