靖国神社に祀られるA級戦犯:小磯国昭

小磯国昭は、1880年3月に山形県宇都宮市に生まれる。日本陸軍士官学校および陸軍大学で学んだ。

1932年、小磯国昭は関東軍参謀長に就任。着任後すぐ、中国東北地方の全面的な殖民統治に関する一連の措施を立案し、主に抗日義勇軍を対象とする「討伐」計画をまとめた。その後、関東軍は東北各地で抗日武装勢力を激しく鎮圧し、容赦なく住民を虐殺するとともに、大量の財産や物資を略奪した。

1944年7月、東条英機内閣が総辞職し、小磯国昭が首相に就任する。この時、日本はすでに敗戦の気配濃厚となっていたが、首相となった小磯国昭は日本軍国主義の失敗を認めず、引き続き戦争政策を推し進めた。

劣勢を挽回するため、小磯国昭は内閣と統帥部の連系強化を狙って、首相、陸首、海相、参謀総長、軍令部総長、外相等からなる「最高戦争指導会議」を設置し、従来の大本営政府連絡会議に代替。目的は内閣と軍部が協調し、戦争指導に役立てることだった。

8月9日、天皇が臨席した最高戦争指導会議で、小磯国昭内閣は(1)現有戦力と国力を徹底的に結集して敵を撃破する(2)戦争の貫徹(3)徹底的な対外政策を実施し、世界戦局の好転を促す――という戦争指導の基本方針を提出した。この戦争指導方針の下、小磯国昭はフィリピンで発動する「天王山决戦」に希望を託した。しかしながら、日本軍はフィリピン海戦および台湾海域の空中戦で度重なる打撃を受け、「天王山决戦」はついに実現しなかった。

戦後、小磯国昭はA級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身禁固の判決を受けた。1950年11月3日、侵略戦争で昇進した日本陸軍大将および前内閣首相である小磯国昭は、東京巣鴨プリズンで病死した。

                        「人民網日本語版」