靖国神社に祀られるA級戦犯:土肥原賢二

土肥原賢二は岡山県の軍人の家に生まれ、14歳で仙台地方陸軍幼年学校へ入学し、東京陸軍幼年学校、日本士官学校、日本陸軍大学で学んだ。1912年に陸軍大学を卒業後、陸軍参謀本部に入り、すぐに参謀本部によって中国へ派遣された。北京特務機関で坂西利八郎中将の補佐官を務め、中国における特務活動のスタートを切った。

土肥原は流暢な北京語を話すほか、中国の方言も幾つか操ることができ、諜報工作を行う上でかなり有利な条件となった。活動成績が目覚ましかったことから、1930年に天津特務機関長となり、翌年には奉天(現在の瀋陽)特務機関長に就任した。

土肥原が奉天に到着して数カ月後、九・一八事変(満洲事変)が勃発。戦後の極東国際軍事裁判で「土肥原賢二は1931年の九・一八事変の共謀者である」とされた。主な理由として、(1)事件発生時は奉天にいなかったが、彼が率いる土肥原特務機関が事件発動の中心となった(2)土肥原は東京滞在時に、新聞・雑誌等で「満州に関するすべての懸案事項を速やかに解决しなければならない。必要なら武力をもって解决をはかる」と公言した(3)事件発生から3日後、土肥原は東京から戻り、奉天市長に就任した(4)土肥原は遜帝溥儀を天津から東北地方へ移送する陰謀を企て、実行した――が挙げられた。このため、極東国際軍事裁判は土肥原を九・一八事変に対する「侵略計画共謀罪」で起訴し、罪証は「確実不動である」とした。

九・一八事変後、土肥原は東北地方で溥儀を擁立し、満蒙「五族共和」体制の日本傀儡政権を樹立することを提案した。関東軍の支持を受け、自ら天津へ赴いて「便衣隊」(ゲリラ部隊)暴動事件を起こし、その機に乗じて溥儀を天津から東北地方へ移送した。土肥原らの演出により、溥儀を首領とする偽満州国政権が間もなく成立し、東北地方は日本の植民地に成り果てた。

東北地方占拠後、日本は華北地方へ勢力を拡大した。土肥原は1933年に再び奉天特務機関長となった。1935年10月、土肥原特務機関は北京に進出し、中国分裂を目標とする「華北自治運動」を画策した。

1936年3月、土肥原は帰国して留守第一師団師団長に任じられた。1937年3月、今度は第14師団師団長に任命された。

1937年に盧溝橋事件が勃発し、日本は全面的な中国侵略戦争を発動。土肥原は命令を受けて、部下を率いて中国へ渡った。

1938年6月、日本は占領地域を統轄する偽政権を樹立するため、対華特別委員会を設立。土肥原が責任者となって、「土肥原機関」と称し、後に「重光堂」と改称。上海に拠点を置いた。

土肥原は1939年に北満第五軍司令官、1940年に日本軍事参議官兼陸軍士官学校校長、1941年に陸軍大将へ昇進して陸軍航空総監に就任。1943年に第七方面軍司令官となり、マレーの第29軍、スマトラの第25軍、ジャワの第16軍、ボルネオの日本守衛隊を統轄。1945年に東京へ戻り、教育総監に任じられた。

日本の敗戦後、土肥原賢二は同盟軍に逮捕され、横浜刑務所に収容される。1948年11月、土肥原は「平和破壊」「戦争法規慣例違反および人道に対する罪」等により、極東国際軍事裁判でA級戦犯という判決を下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された。

                         「人民網日本語版」