靖国神社に祀られるA級戦犯:武藤章

武藤章は1892年12月に熊本県で生まれ、1920年に日本陸軍大学を卒業した。1936年に中国へ赴任し、関東軍参謀部第二課課長となった。

1937年に起きた「八・一三事変(第二次上海事変)」後、日本軍は上海へ進攻したが、中国軍の激しい抵抗を受け、速戦即決の目標は達成されなかった。武藤章は軍隊を派遣し、杭州湾へ上陸することを提案した。彼の意見は採用され、日本軍の上海占領計画は達せられた。献策の功により、彼は中支方面軍参謀副長に任命される。武藤章は新職務就任後、直ちに南京へ進攻することを提案した。1937年12月1日、日本大本営は彼の意見を聞き入れ、南京進攻の命令を下す。

1937年12月13日、日本軍が南京を占領し、続いて30万人の中国同胞が殺害されるという大惨事が起きた。武藤章はこの惨事を招いた元凶の一人である。当時、武藤章は中支方面軍参謀副長の肩書きで、南京地区における日本軍の宿営地手配を担当していた。武藤章は、南京城外に宿営地が不足しているので、日本軍将兵は南京市内で自由に宿営地を選べると発言。この発言をきっかけとして、まるで野獣のオリを開けたかのように、日本軍は南京城内のあらゆる路地へ入り込み、男性を見れば殺し、女性を見れば強姦し、財を見れば略奪し、全世界を震撼させる南京大虐殺事件を引き起こした。

1942年、武藤章は中将へ昇進し、近衛師団長となって、軍を率いてフィリピンへ侵入する。1944年、第14方面軍参謀長に就任。この間、彼は現地住民を虐殺し、「マニラ虐殺事件」を起こす。

 1948年11月4日、極東国際軍事裁判は武藤章をA級戦犯と判定し、絞首刑を宣告する。同年12月23日、武藤章は東京巣鴨プリズンで絞首刑に処せられる。

                           「人民網日本語版」