金蛇の舞った年(巳年)は、中国人にとって、本当に幸せな年だった。――北京は、2008年の五輪招致に成功し、北京で開催された第21回ユニバーシアード競技大会は、大成功のうちに幕を閉じ、中国の世界貿易機関(WTO)加盟交渉が終了し、中国サッカーチームは、2002年ワールドカップ本大会の出場権を手にし、長年の夢を実現させた。中国人が巳年に味わった喜びに酔いしれ、何本ものシャンパンを楽しんでいるうちに、午年がやってきた。 劇的な巳年のあとには、予想もつかない午年が訪れるという定めがある。2月12日は、壬午(みずのえうま)年の旧正月。中国は、金蛇の舞いに別れを告げ、万馬が疾走する年に入る。同じように十二支文化を持つアジアの各地でも、意欲に満ち溢れた午年を迎えるだろう。 五輪の英雄 まずは、クイズを一問。オリンピックに出場できる動物は何か?――それは、馬。 オリンピック精神を表すクーベルタン男爵の言葉「より速く、より高く、より強く」を体現する場で、馬と人が力を合わせる競技――それは、馬術である。人間ではない馬が、人類最高峰のスポーツの祭典に出場できる。これだけでも、両者の密接な関係がわかる。 馬と人が共同で勝ち取る金、銀、銅のメダル総数は、当然ながら、その他の種目同様、各国・地域の成績に計上される。そのため、「より速く、より高く、より強く」という、人類のオリンピック精神を貫いた馬も、五輪の英雄と同じように尊敬され、栄光を手にする。馬は、人間以外でこのような礼遇を受けている唯一の動物と言ってよいだろう。 オリンピック競技での馬の聡明さや優雅さは、人を魅了し、競馬祭や競馬大会で見せるそのスピードは、さらに人を興奮させ、サーカス団の馬はといえば、大人と子供の隔てなく、詰め掛けた観客みんなを喜ばせる。 馬は、本当にIQ(知能指数)が高い動物と言えそうだ。スウィフト(1667〜1745)の代表作『ガリバー旅行記』には、「馬の国」が描かれているが、それは、馬が人間を支配している国で、スウィフトは、主人公のガリバーに、「この国こそ、公正で文明化された理想の国だ」と語らせ、馬の賢さと善良さを引き合いに出して、人間の卑劣さや社会の汚さを鋭く風刺し批判した。 生産力のシンボル 馬は、人類がもっとも早期に調教し、飼育した動物の一つである。山東省章丘市竜山鎮にある城子崖からの出土物が立証しているように、四千年以上前の人類は、すでに馬を飼育し始めていた。この発見は、「相土作乗馬(相土、乗馬を作す)」と古書に記載された時代と大差がない。四千年以上前に、相土という人が、四匹の馬に荷車を引かせ、荷物を運搬させる知恵を持っていた事実は、黄河流域にあった商という国の牧畜業の発達ぶりを物語っている。 しかしそればかりか、今のシベリア地方に暮らしていた北方遊牧民は、もっと前から馬の調教、飼育をしていたことがわかっている。彼らは、約五千年前に野生の馬を調教し、くつわを付けて馬車を引かせていた。「相土作乗馬」は、十中八九、シベリア人からヒントを得ていたと言えそうだ。 馬が六畜、すなわち馬、牛、羊、鶏、豚、犬の六種類の家畜の最初に挙げられるのは、遊牧文化にせよ、農耕文化にせよ、馬が人類にとって欠くことのできない助手であり、言い換えれば、馬こそが生産力を示すシンボルだからだ。近代社会でも、機械化が普及する前は、農業生産にとって、馬は依然として農村のほとんどの重労働をこなす働き手だった。今日でも、発展が遅れている中国の一部地域では、いまだに馬は主要な労働力であり、農家では重要な家族とさえ思われている。 火薬がなかった時代には、人と馬からなる騎馬隊は、もっとも破壊力のある軍事力だった。数千年にわたる刀剣による戦争を通して、馬は人間とともに歴史を作り上げたのだ。チンギス・ハンが、その愛馬にまたがりユーラシア大陸を横断していた事実は、私たちにこう強く訴えかけてくる――いかなる動物も、馬のように人間の歴史にこれほどまでの影響を及ぼすことはなかった、と。 人が馬を頼り、馬に関心を寄せる姿勢は、他の動物に対してはあり得ないことで、人間以上に重視したことさえあった。漢の武帝・劉徹(前140〜前87)は、西域の名馬を手に入れるため、戦争を起こしたほどだ。彼は、李広利将軍に大宛国を攻めさせたが、その際の戦利品は、名馬として有名だった十数匹の「汗血馬」だけだった。この種の馬は、毛色が赤みを帯び、その汗が日差しのもとで血のように見えるためにこう呼ばれていた。また、一日に千里を駆けられるため、「天馬」の称号で愛されていた。 名馬は、名将とともに記録に残されていることも多い。西楚の覇王・項羽(前232〜前202)は、漢の劉邦と天下の覇権を争った「垓下の戦い」で大敗し、ふるさとの人たちに顔向けできないと思い、烏江(いまの安徽省和県の北東にある川)を渡らずに自刎したが、自刎前、愛馬「烏騅」を部下に託した。以来、この馬は名をあげ、長く語り継がれた。 また『三国志』に、「人は呂布、馬は赤兔」「人は張飛、馬は玉追」という言葉があるように、過去においては名馬を名武将と同列に扱い、神格化していたため、名馬はその名を後世に語り継がれている。 民俗文化の媒介物 馬は、人類史において重要な役割を果たし、人類文化に多くの足跡を残している。現在、親字約1万、語彙約10万を収録した中国の大型辞典『辞源』には、「馬」および「馬偏」の親字が151文字収録されている。先人が文字を作った時、馬の様々な体つきや毛色を細分化したため、あらゆる姿の馬に相応した文字が作られている。 例えばこんな感じだ。「跛」は黒毛の馬、「跋」は青黒毛の馬、「騅」は葦毛(白に黒または濃い褐色の交じった毛)の馬、「イン(馬に因)」はみずあお(浅黒に白の交じった毛)の馬、「踝」はしらかげ(黄に白斑の毛)の馬、「踉」は栗毛(黒のたてがみと尻尾)の赤馬など――。これほど多彩な馬にまつわる文字が生まれたことからは、中国文化における馬の位置付けを知ることができる。 工業文明の発達につれ、人類史に与える馬の影響力は次第に弱まった。しかし、馬はいまでも民俗文化の媒介物であり続けている。 中国では、古くから馬を祭る風習が民間に守られ続けていて、全国の至るところで見られる。春の馬祖祭、夏の先牧祭、秋の馬社祭、冬の馬歩祭などがそれである。馬祖は天の趁ともいわれ、天上に宿る馬の星座のこと。先牧とは、人に馬の飼育方法を教える神のこと。馬社とは、馬屋に祭られている土地の神のこと。馬歩とは、馬に疫病を感染させる疫神のこと。 昔の漢民族は、馬王爺、すなわち馬を司る神を民間で信仰していた。言い伝えによると、その神のモデルは前漢の大臣・金日テイ(前134〜前86)という。彼は、もともと匈奴の休屠王の太子だったが、昆邪王とともに前漢の武帝に帰属し、馬監(馬を司る最高位)に任ぜられた。そして死後に神格化され、四本の手と三つの目を持つ獰猛な化け物の姿になって後世に伝えられている。 蒙古族の伝統的祭日には、馬乳祭と競馬祭があり、毎年、旧暦の8月末の1日に開催される。騎馬民族の祭日には、当然のことながら際立った特徴がある。この日の早朝、人々はお祭り用の盛装を身に着け、馬乳酒を携えて馬にまたがって草原に集まる。牛や羊をさばき、乳製品の仕度などが終わり、太陽が昇ってくるころになると、競馬が始まる。競馬が終われば宴会だ。みんなで乾杯し、馬頭琴の伴奏のもと思う存分歌ったり踊ったりして、深夜まで大騒ぎになる。このような習俗は、他民族だけでなく、外国の観光客をも惹きつけ、毎年お祭りの季節になると、草原は快楽の大海原になる。 他の民族の馬に関する祝祭日も、枚挙にいとまがない。人間と馬の数千年にわたる深い交わりは、民俗文化の中に溶け込み、工業文明の後に来た現代先進文明でさえ、この関係を断ち切ることはできないといえる。 例えば、「馬」との関連で誕生した成語や熟語は、現代社会でも話し言葉や書き言葉の中に活き続けている。「老馬識途(老馬途を識る)」は、経験を積んだ者は自信を持って物事を行えること、「老踟伏櫪(老踟櫪に伏する)」は、曹操の詩から出来た言葉で、人は老いても大志を持ち続けることのたとえだ。「害群之馬(群れを害する馬)」は、集団の利益を損なう人を指し、「千里駒(千里の駒)」は、若者の才知を称える誉め言葉だ。「青梅竹馬」は、李白の詩「郎、竹馬に騎りて来り、牀を遶りて青梅を弄する」から出来た言葉で、幼い子供同士の友情のことで、日本語の「竹馬の友」の語源。「塞翁失馬(塞翁が馬を失う)」は、『准南子・人間訓』から出来た言葉で、悪いことも良いことに変わる可能性があることのたとえだ。このような成語や熟語は、少なく見積もっても数十句はあるが、いずれも哲理に富み、優れたたとえで、中国語の表現力に深みを持たせている。 先人の馬への愛着は、考古学的発見からも立証されている。秦の兵馬俑から漢の銅馬俑、唐の唐三彩に至るまで、各時代に造られた様々な素材を使った各種の馬の芸術品は、すべて生き生きとしている。 1975年に甘粛省武威県雷台にある漢の張将軍の墓から出土した銅製の奔馬は、特に注目を集めた。その馬は、走り出そうとしているかのようで、三本の足が踊り上がり、残りの一本の足で一羽の鳥を踏みつけている。鳥は恐怖の表情でもがくも、馬は全重心を鳥の上に掛けることでバランスを取っている。この奔馬は、動くはずもない芸術品に過ぎないが、天馬が空を駆けるような敏捷さを感じさせる。この奔馬が発見されて以来ずっと、人々は、先人がなぜこのようなデザインをしたのかを想像し、もっともふさわしい名前をつけようとしている。多くの論文が書かれ、「天馬」「銅奔馬」「馬超竜雀」「馬神――天趁」「馬踏飛燕(馬、飛燕を踏む)」といった様々な案が出てい 驍ェ、市民は習慣的に「馬踏飛燕」の名で呼んでいる。 国家旅遊局(国家観光局)が、この銅製の奔馬を中国観光のシンボルにしているのは、実に的を得ている。「春風得意馬蹄疾(春風、意を得て馬蹄疾し)」という言葉があるように、古代の人は、遠出の際には必ず馬を駆った。現代人は、自動車を足代わりにし、飛行機で往来するようになったが、これも、「天馬、空を駆ける」という快感を体験していると言えるだろう。 人材の暗喩 「良馬、日に千里行くといえども、千里の馬、なかなか得難し」。古代の人はよく、千里を駆けられる良馬を優れた人材にたとえた。2400年以上前の戦国時代、燕の国の文人・郭隗は、燕の昭王に、千里の馬がどれだけ重要かという物語を聞かせ、天下の賢者を招くよう勧めた。
早くも三千年前の商の時代に、専門の馬相見がいた。中でも特に優れた眼力を持った者は、「伯楽」と褒め称えられた。「伯楽」とはもともと星の名で、その星は天馬を司ると考えられていた。そこで、良馬を見抜くことのできる人を「伯楽」というようになった。のちに伯楽も人間化され、様々な伝説も生まれた。今日でも、人々は相変わらず、俊傑を見抜く眼力のある人を伯楽にたとえている。 封建社会には、才能がありながら認められず、国のために働こうと思いながらもチャンスをつかめずに、一生を棒に振った人が少なからずいた。唐の文学者・韓愈は、「雑説」なる一文に、「世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり。千里の馬はあれども、一人の伯楽はなし」と嘆いた。 言い伝えによると、ある日、伯楽は路上で重い塩を積んだ荷車を引く馬を目にし、突然大声で泣き出してしまったという。馬も伯楽を見て長いいななきをあげたとか。日に千里も行く良馬が、実力に見合った働きができなかったのは、確かに残念なことだ。これは、直接的には馬の悲哀に触れているが、実際は、人材を埋もれさせてしまったことの暗喩だ。中国の数千年にわたる人材選抜制度では、どれだけの優秀な人材が埋もれてしまったのだろうか。韓愈の嘆息は、後世の人々にも何度も繰り返されている。 清の詩人・?自珍(1792〜1841)は、次のような詩で人材輩出の重要性を呼びかけた。 九州の生気は風雷を恃み、 今日の中国は、ついに万馬が疾走し、優秀な人材が日の光を浴びる新時代に突入しようとしている。(2002年1月号より) |