張春侠
「迷子たち」の遅刻
シンポジウムの記者会見は、9月11日午後四時に予定されていた。会場となった広くはない外国文学研究所の会議室は、20分前には満員になった。事務方は、ちょっとしたスペースを見つけては、そそくさとイスを追加し、会場にはシンポジウムへの期待感が満ち溢れていた。女性作家の入場を待つ間、シンポジウム開催に合わせて出版された、中日各10名の女性作家の作品を収録した『中日女作家新作大系』(中国文聯出版社、全20巻)が注目を集めた。そして中国の女性作家が入ってくると、今度は彼女たちに視線が注がれ、ファンにいたっては、サインを求めて歩み寄った。 予定から遅れること1時間。午後5時になって日本の女性作家が、外国文学研究所の副研究員である許金竜さんら会議の主催者に先導されて入ってきた。まず最初に、主催者は台風で到着時間が遅れたことを何度も謝った。
シンポジウムが始まったばかりのとき、中国側の団長・張抗抗さんがあわてて会場に入ってきて、遅刻を詫びた。彼女は、午後3時30分には到着していたが、誰かが案内してくれるだろうと、ずっと座って待っていたという。その後自分で会場を探したが、今度は建物の中で迷ってしまったとか。彼女は、「こんなに通信手段が発達した今日、迷子になるなんて、ホント変ですね」と笑い、方方さんと池莉さんがいないことに気付き、なるほどというような表情でこう言った。「彼女たちとは電話で約束しておいたから、もう着いていいはずよ。私と同じで会場を見つけられないのかしら。これも私たち中国女性があまり積極的ではない証拠ね。もっと自己解放しなきゃ」――会場はどっと沸き立ち、一気に熱気を帯びた。 その日の晩餐会は、参加者が泊まった好苑建国商務酒店(ホテル)の大ホールにて開催された。日本側の団長・津島佑子さんは、この日のために勉強したと思われるたどたどしい中国語で挨拶した。張抗抗さんは驚き、日本語で歓迎の意を表せなかったことを後悔したが、すでに遅かった。わたしと数人の記者、それに学者である与那覇恵子さん、岩見照代さんらが同じテーブルについた。言葉の壁はあったが、簡単な英語を使って楽しい時間を過ごした。 女性主義と女性の創作 9月12日、わたしはシンポジウム開始の30分前には会場に到着していたが、すでに席はなく、早々着席していた数名の作家たちの周りには人垣ができていた。 午前10時ちょうど、シンポジウムは日本側の原善さんと中国側の許金竜さんの司会で始まった。まず、日本の学者・与那覇さん、近藤裕子さん、中国の評論家・白Yさんが、それぞれ中日女性文学の歴史と現状についての紹介を行った。また、病気のために欠席した中国の有名作家・宗璞さんからの「シンポジウムのご成功をお祈りします」との祝電を紹介した。 初対面で言葉の壁もあるためか、最初、双方には硬さが感じられ、午前中は活発な意見交換には至らなかった。これについて中沢けいさんは、午前中はさわりに過ぎず、面白いのは今後の作家同士の対話のはずと前置きし、今回のシンポジウムの意義について次のように語った。「世界はますます小さくなり、各国の関係は日ごとに深くなっていますが、個人の精神生活、個人の感覚はまだまだ多様。女性はそんな繊細な部分には敏感で、相手との差異を受け入れる度量があります。だからこそ、日中の女性作家は手を取り合う必要があり、それによって相互理解が可能だと思います」。私が『人民中国』の記者だと知って、彼女は興奮してこう付け加えた。「いつも楽しみにしていますよ。特に、昨年連載の『中国雑貨店』や北京大学、清華大学の様子を紹介する記事が好きです」。 午後には、「女性主義の創作」が、話題の一つとなった。張抗抗さんはこんな疑問を提起した。女性主義は女性作家が創作にあたって選ぶべき唯一の道だろうか。女性意識は、女性作家の視線がすべて注がれなくてはいけないものだろうか。もし女性文学に、パラリンピックのように限られた人だけが享受するための独立した評価システムや基準ができてしまったら、どのようにして男性中心の社会秩序を打ち破ることができるだろうか。 ある日本の女性作家は、すぐに別の考えを示した。理念上では、決して身体障害者を差別してはいけない、と。 張抗抗さんは、こう切り返した。「これは差別ではありません。女性作家の作品をパラリンピックのような自己基準、すなわち女性自身の基準で見てしまうことに反対し、男性作家の作品と同じ基準で見るべきだと言っているだけです。すなわち、女性文学を低い次元で語るべきではないというのがわたしの考えです」。 茅野裕城子さんは、中国に興味を持って十年近くになり、作家の張承志さん、王朔さん、莫言さんとは友達だ。しかし、中国の女性作家と知り合うのは今回がはじめてで、喜びはひとしおだという。彼女は張抗抗さんの「性差の打破」という考えに強い興味を示した。茅野さんの作品に描かれた「好きな男性の真似をする女性」も、性差を気にしない女性だ。一方中国でも、70年代の「文化大革命」後、性差を打破する手法は、ようやく社会的認知を獲得し始めている。茅野さんは、1930、40年代の「鴛鴦蝴蝶派」(当時流行した文学流派。才子佳人の哀情を題材にしたものが多い)や張愛玲らの作品に触れたことがあり、現在の中国の女性作家も性差打破の様々な作品を創作することができるものと考えている。
方方さんは、「現代女性作家の比較的多くの作品には、高く評価されるべき反逆精神が現れています。これらの作品は、精神から肉体に至るまでが反逆の姿で表現されています。これは、女性による自己解放の必然的な過程です」との考えを示した。また彼女は、一部の女性作家の下品な表現傾向を否定してこう言った。「『女の性』は、文学作品の中で非常に重要なテーマ。『性』を強調する作家も、『女性自身』を強調する作家もいますが、カギは、どう把握するかでしょう」。 一方、松浦理英子さんは、性行為を一種のユーモアとして描き出す手法もあると主張した。彼女は、性差を強調しない方式を取ることで、性別にとらわれない平等な関係に到達できると考え、そこを出発点に、男性の支配的地位を否定しようとしている。
出席者は、矢継ぎ早に自分の見解を述べた。司会者の一人である原善さんは、「単身で来てよかった。妻と一緒に来ていたら、帰国後すぐに離婚していたでしょう」と、ユーモアたっぷりに感想を述べた。 言語芸術の獲得と喪失 このシンポジウムで女性作家たちは、「笑いと性の表現」「風土と生死の想像力」「探索的言語の可能性」などをテーマに意見交換を行った。 言語関連の話題に触れた時、長年ドイツに生活していて、ドイツ語と日本語の二言語で創作活動をしている多和田葉子さんは、「漢字は想像力をかきたてる文字」と発言した。彼女は一例として、同じ「自転車」を意味しながら、中国語では「自行車」、日本語では「自転車」と表現する漢字の不思議さに触れた。 その後、話題が文字そのものから両国の言語交流に移り、意見交換はさらに白熱した。 方方さんは、こう発言した。言語は、本土を離れてしまっては情報伝達できない。中国語を日本語に翻訳すれば、多くのものが失われてしまう。読者は内容だけが理解できるのであり、言語そのものの芸術的魅力は、伝達過程で流失してしまう。作品創作の技術的な部分の多くは、言語そのものに込めているのだから。 これに対し残雪さんは、反対意見を出した。「伝達過程で失うものはあっても、案外何かを得られる可能性がある」と。方方さんが、「わたしも伝達そのものを否定はしないけど、知らず知らずのうちに失われてしまうものは確実に存在する」と応戦すると、残雪さんは、「でも、案外ちょっとした喜びを得られる可能性もあるわ」と強く主張。白熱した討論に、会場からは熱い拍手が沸き上がった。 言語芸術は、翻訳を通して、確かに得るものも失うものもある。中沢さんはこう主張する。言語の「分量」をどのように保存するかが重要なこと。伝達過程で、どう喪失させないかもポイント。どんな言語にもこれらの問題は存在する。自分の母語能力を豊かにすることでしか、言語表現力を失わない方法はない。これこそが、双方が討論すべき問題ではないだろうか。 本当の意味で会場が熱気に包まれたのは、男性が司会した会議の席上、まじめな議題からたまたま話がわき道にそれた時だった。女性作家同士が自由に討論したのは、「日本の女性作家は働く女性か、性愛を創作の主体にしているか」「中国の女性作家の創作経歴、出版状況」などである。徐坤さんが、「ほろ酔いは創作に良い」と言ったところ、お酒好きな日本の一部の女性作家は、すぐに大きな拍手を送った。 会議自体は二日間だけだったが、方方さんは、日本の女性作家の発言は、どれも感性的で具体的なものだと感じた。「日本の女性作家が、ささいなことから個人の感覚を述べるのに対し、中国の女性作家は、理性的な思惟を重視する。これこそが、両国の最大の違いでしょう」。 一方津島さんは、「中国の女性作家は地に足がついていて、社会の現実に目を向けていると感じました。学ぶものがたくさんあり、今後、大きなテーマを決めて共同で討論することは意義あることでしょう」との考えを示した。 長城に到らずんば、女傑に非ず 9月14日午後、張抗抗さん、残雪さんは、中国側の代表として、日本の女性作家とともに、万里の長城(八達嶺)行きのバスに乗り込んだ。路上、日本の女性作家たちは、好奇の目で車窓からの景色を眺めていた――北京の四合院、皇城根遺跡公園、数多くの立体交差橋などが、彼女たちの視線を引き付けた。はじめて北京に来た方は、何に対しても興味を示し、2回目、3回目の方は、北京の変化の速さに驚いていた。 徐々に車内は静かになり、モーターの音以外は聞こえなくなり、誰もがうとうととし始めた。「皆さん、ちょっといいですか。いまから、わたしが臨時ガイドを務めます」。突然の声に、みんなは驚いて、眠気から覚めた。張抗抗さんがマイクを持って、沿線の紹介をはじめたのだ。彼女は、通り過ぎたばかりの居庸関(万里の長城の一角)から説明をはじめ、長城の役割と今日までの変遷についてガイドした。 連日の疲れのため、多くの人は自分の足で長城に登るのはあきらめたが、若い作家は、「長城に到らずんば、好漢に非ず」という気概で登ろうとした。ロープウェイで登るグループと徒歩で登るグループに分かれ、万里の長城に足を踏み入れた。 正真正銘の「好漢」になるには、二つあるルートのうち、急な階段の方を登る必要がある。無理をしたため、ちょっと登っただけで息を切らして、最高地点まで登るのをあきらめる方もいた。最高地点まで登り切った人たちがようやく戻ってきた時、みんなは親指を立ててほめたたえた。 下りる途中、明るい性格の残雪さんは、笑ってわたしに言った。「彼女たち(日本の女性作家)は、みんな恥ずかしがり屋ね」。特に一日目、日本の女性作家は、残雪さんに話し掛けたくて仕方がなかったはずなのに、どうしていいかわからない様子だったという。そして、前にいる川村湊さんを指差しながら、私の耳元でひそひそと、「彼はさっきすごく緊張してたみたい。一生懸命汗を拭いているんだもん」と話してきた。わたしはふと、不思議な感じがした。川村さんは、残雪さんの作品の評論を書いたこともある評論家だ。さっきも同じロープウェイに乗っていた。残雪さんは英語も話せるのだから、こんな絶好の交流の機会を逃す手はあるだろうか。しかし彼はひと言も話しかけていなかった。きっと、残雪さんのいう、「恥ずかしがり屋」に含まれるのだろう。 バスまでたどり着くと、留守番をしていた張抗抗さんが、口早に感想を聞いた。最高地点まで登った人がいると知って、彼女は思わず親指を立て、名言を吐いた。「長城に到らずんば、女傑に非ず(長城に登らなきゃ、女傑とは言えない)ものね」。 大切なのは会うこと 八達嶺を離れ、有名な観光地である定陵を見学し、車で北京市北部の温泉ホテル・九華山荘に向かった。車を降りると、日本の女性作家は山荘の豪華さに目を丸くして、「すごいね。こんなにきれいなところがあるんだね」と感心した。 夕食の際には、お酒を注ぎつ注がれつしながら、いろいろ話し合った。北京に何度も足を運んでいる原善さんは、日本から持ってきた日本酒をみんなに勧めていた。シンポジウムの企画者の一人が、津島さんに、「成功してよかった。今後ももっと交流を深めましょう」と言うと、津島さんは、覚えたばかりの中国語で、「対! 対対対!(もちろん、もちろん!)」と答え、みんなの笑いを誘った。 最終日の9月15日、あわただしい昼食を済ませ、今回の全日程が終了する時が近づいた。短い5日間の交流では、どんな成果があったのだろうか。 張抗抗さんは、こう言う。両国の言葉は違うのだから、このレベルの交流ができれば成功だと思う。知り合えた八名の女性作家は、魅力的で個性があり、本当の意味での自然な付き合いができた。双方は初歩的な理解ができた。交流の機会が増えれば、もっとうちとけて話し合うことができる。 日本の女性作家に対する印象について、残雪さんは、次のように語った。私たちよりずっと個性的で、女性としての感覚が成熟している。彼女たちの作品全部を読んだことがあるわけではないが、読んだものは面白かった。特に、女性の角度からの描写は、私たちより深いものがある。 松浦さんは、数日間だけではあっても、残雪さんと意見交換でき、まるで夢のようだと語る。「中国の女性作家が率直に性や同性愛などの問題について語ることに、非常に驚きました。中国の女性作家は、私たち日本人より開放的かもしれません」。 司会を勤めた許金竜さんは、予想以上の成果を収めたことで満足そうな表情を見せる。彼は、「今回の活動は、中日両国の女性作家にとって初めての交流に過ぎない。今後、もっと多くの活動を催していきたい」と抱負を語った。 そう、これは初めての交流で、まだまだ改善すべき部分はあるが、ある女性作家が言うように、「大切なのは会うこと」である。(写真 李聯朝)(2002年2月号より) |