海南省三亜市
 大自然きらめく熱帯リゾートを歩く

                  写真 文・劉世昭

 

中国最南端の都市・三亜市は、 熱帯海浜地
区としては中国唯一 の「国際観光都市」だ
 

      亜竜湾・とっておきの名勝

 中国最南端の都市・海南省三亜市にやってきたのは、昨年末のことだった。その日、首都北京では雪が降ったが、こちらの気温は28度。南と北では歴然と気候が異なる。中国唯一の熱帯都市である三亜市は、こうして有名な観光都市となった。

「三亜水世界潜水公司」のカメラマンがスキューバダイビングに興じる観光客を撮影してくれる

 ここのとっておきの名勝といえば、国家クラスの観光リゾート地――亜竜湾である。亜竜湾の海水は生臭さがなく、まるでシルクのようになめらかな手触りだ。白い砂浜の上には、美しい貝殻が流れ着いていた。また茅葺のパラソルの下には、白いリクライニングシートが置かれ、観光客たちが自由に利用していた。亜竜湾の朝は美しく、まるで一筆ひとふで書き上げられた一幅の絵のようにきらめいていた。

 午前は、まず名所といわれる亜竜湾広場や蝴蝶谷、貝殻博物館、ゴルフ場へと足を運んだ。午後は、車で市街地から西へ約40キロの南山文化旅遊区を訪れた。

亜竜湾の砂浜で波と
たわむれる観光客
パラセイリングで
空中散歩に楽しむ

 今から八百年あまり前、唐代の高僧・鑑真和尚は、日本の留学僧35人を率いて、5度目の日本渡航に臨んだ。しかし、運悪く折からの暴風雨に遭い、南山の海岸に漂着した。その後、この地に「大雲寺」という寺院を建立し、仏教文化を押し広めたのである。南山ではちょうど、高さ108メートルの三面観音像が造られていた。海岸からは、海底にしっかりと打ち付けられた仏像の土台石が認められた。

 南山文化旅遊区からの帰途、「天涯海角」風景区を通り過ぎた。海辺には、「天涯」や「海角」(海のはて)などの文字が刻まれた奇岩がそびえ、その周りに大勢の観光客が集まっているのが見えた。静かな風景写真を収めようとするなら、人気のない夜半まで待たなければならないだろう。

若者たちがバナ
ナボートで歓声
を上げていた

 三亜市で最も高台に位置する「鹿回頭公園」は、鹿回頭の純愛伝説にちなんで設けられたという。日が沈む前にここの全貌を撮影しようと、私はわき目も振らずシャッターを押し続けた。海岸線に沿ってその形がローマ字のYの字に似ていると紹介されていた三亜湾、亜竜湾、大東海……。ここ三亜市は、観光を目玉として開発されそして発展した、中国では唯一の都市であろう。

      西島・マリンスポーツのレジャー島

 三亜市の大通り・椰林大道から西側に見える西島は、海からはい出したタイマイ(ウミガメの一種)にそっくりな形をしている。三亜市周辺に点在する離島の一つである。

三亜市亜竜湾に
臨んだホテル

 西島にはこんなエピソードがある。数年前のこと、台湾の潜水協会に所属するある潜水選手が三亜市をスタートして2時間あまり遊泳し、西島に無事「ゴールイン」した。彼は上陸した途端、そのあまりの美しさに心奪われて、帰りたくなくなった。その時、彼こそが西島の「財神」(福の神)であると気づく者がいただろうか? こうして「発掘」された西島は、またたく間に三亜市で最もマリンスポーツの盛んなレジャー島へと発展した。

ベルギーの旅客が
「天涯海角」で結
婚式を挙げていた
蜈支洲島はその静けさから「情人島」(恋人島)とも

 ここで楽しめるマリンスポーツにはいくつかある。パラセイリング、スキューバダイビング、バナナボート、ジェットスキー、ウェイクボード。いずれも、刺激的でワクワクするようなスポーツばかりだ。

 同行者のある女性が、パラセイリングに挑戦した。ところが、パラシュートで飛天のように舞い上がったものの一陣の風とともにバランスを崩し、バシャンと海へ墜落した。みな手に汗を握ったが、彼女は泳いで岸に上がったかと思うと、「まだ遊び足りないわ」と悠々として、おどけて見せた。

 西島はレジャー設備をはじめ、海鮮や日本風串焼きなど味のいいレストランも整っている。残念なことに建設されたホテルはあったが、まだオープン前だったので、我々は別の離島――蜈支洲島で宿をとることにした。

亜竜湾のゴルフ
場は業界内では
「世界10大ゴル
フ場」の一つに
数えられている

 蜈支洲島は亜竜湾よりさらに静かで、素朴な土地柄だった。面積1・4平方キロの島には先住民もいない。近年、開発されたばかりのまったくの「観光リゾート島」なのである。

 小島では、パイナップルとヤシの木が美しいコントラストを見せていた。海に面した林の中には茅葺のツインルームが、またさらに奥深い密林の中にはドライバーのための簡易ホテルが、それぞれ設けられていた。

       新村鎮・海に浮かんだ漁村

三亜市から70キロ離れた吊羅山国家森林公園は、中国でも珍しい原始熱帯雨林の一つだ

 三亜市から東北へ約50キロの陵水県新村鎮(村の集まり)は、とりたてて名のある村というわけではない。すぐそばに向き合う猴島の方が、国家自然保護区でもあり知名度も高い。この日も大型の観光バスが、埠頭の上を頻繁に行き交っていた。猴島には2000匹以上のタイワンザルが生息している。人間に芸を仕込まれ、すぐれたショーを見せてくれたサルたちもいて、大いに感心させられた。

 猴島へ行くには、長いケーブルカーに乗る必要がある。ケーブルカーから見下ろすと、板を渡した海上に、整然と立ち並ぶ漁師たちの家々が目に入った。ダン家と呼ばれる水上生活者たちの家だ。

海に浮かぶ漁村
水上の海鮮レス
トランはなかな
かの繁盛ぶりだ

 海南省に住む漁師たちの原始的な文化の根源を探ろうとするなら、千年以上も前にさかのぼらなければならない。 家たちは内陸部から海南島に移住して、漁をしながら長年海上に暮らしてきた。今でも彼らは「海をもって家とする」習俗を継承している。もちろん、伝統の中にはある種の封鎖性もあって、彼らはよそ者への接待や世話を好まない。

 陵水県新村鎮は、そんな 家の漁師たちが一生を送る居住地だ。現地の人に手配してもらい、我々はその日の午後3時に、ある小型漁船(6トン)の上で落ち合うことになった。

 船長の楊大章さんは、「阿章さん」という愛称で親しまれていた。阿章さん一家は3世代9人がともに暮らす大家族。ほかに2人の助手も雇い入れていた。阿章さんによれば、「天下一の苦労人が漁師だよ」という。

早朝、海辺の魚市
はとても忙しい

 午後5時、漁船が出港した。私にとっては、生まれて初めての「漁体験」だ。漁師の生活を知るまたとないチャンスでもある。

 鉛色の雲の底に日が落ちると、それを合図にいかりを下ろした。鍋底のように空が真っ暗になると、再び船のモーターを利用して20あまりの集魚灯をつけた。海面がパッと明るく照らし出された。

船長の楊大章さん。「阿章さん」という愛称で親しまれている

 船の操舵室には、超音波による魚群探知機があり、画面には小さな黒点がバラバラに映し出されていた。見たところ小魚の群れのようだ。阿章さんは言った。

 「あれは、1998年のことだった。休漁期が過ぎたばかりのころ、ひと網で6万元(1元は約15円)あまりもの大漁に恵まれた。素晴らしかったよ。一生のうち、あんな幸運を手にする漁師がどれだけいるだろうか」

 午後9時ちょうど、月が顔を出すとみな一斉に網をおろし始めた。網は深さ70メートルまでおろすことができるという。そのうち網を一杯におろしたかと思うと、それを素早くたぐり寄せ始めた。網の口がみるみる小さくなっていった。みな目が回るほどの忙しさだ。やがてたくさんのタチウオが船上に打ち上げられたが、ひと網で50キロに満たなかったようだ。阿章さんは言った。

 「空網だ」

 翌朝の午前5時、仕掛けた二回目の網も、期待はずれに終わった。

網を収めた後、力を合わせて漁船を引き上げる漁師たち

 午前6時30分、漁船は港へと引き返した。阿章さんは、あわただしく身づくろいをすると、あいさつを交わす間もなく岸へと上がっていった。

 魚市場は、たくさんの人でごった返していた。私は魚篭を持った阿章さんの長男について、岸へ上がった。

 ある人が魚を買いに来た。タコ9・5キロが130元、タチウオ7・5キロが7元5角で、それぞれ売れた。数キロの残りの雑魚は、飼料として無料で配られた。この日の阿章さんの売り上げは137元5角。一方、船の燃料代には500元が費やされたという。(2002年4月号より)