遊びよもやま話(下) 緑 楊 人類は大空に対して本能的な憧れを持っており、雲の間を自由に飛び回ってみたいと願い続けてきた。その強い願いが飛行機や宇宙船などを生みだしてきた。そうした「空飛ぶ機械」が発明される以前は、人々はただ青空を見上げて鳥たちをうらやむしかなかった。ところが、そんな時代にも空への夢を捨てきれない人たちがいた。彼らは凧を発明して自分の幻想を大空に解き放ち、ブランコをこいで少しでも青空に近づこうとしたのだった。 凧 『紅楼夢』の第70回には、柳絮の舞う大観園で若い男女が詩を詠む場面が描かれている。この時、普段は真面目で上品な薛宝黷ェ「よき風よ力を貸して 吾を送れ青雲のはたてに」(平凡社刊 伊藤漱平訳『紅楼夢』より)という気宇壮大な詩を詠み、周りの人々の絶賛を浴びたというくだりがある。封建的な時代、大半の時間を屋敷の中で過ごしていた少女でさえも、大空に強烈な憧れを持っていたことがここから見てとれる。作者曹雪芹の、人間観察の深さとその描写の巧みさをよく示す場面でもある。
詩の競作が終わると、糸の切れた凧がどこからともなく飛んできて、園内に落ちてきた。これをみて、みなで凧を揚げようと思い立ち、侍女たちにそれぞれの部屋から色々な形の凧を持ち出して来させた。林黛玉の凧が高く高く舞い揚がり、糸が目一杯出てしまうと、侍女の紫鵑はその糸をはさみで切ってしまう。あっという間に凧はどこかへ飛んでいってしまうのだが、これは「放晦気(厄飛ばし)」という古い風習で、これで病弱な林黛玉の悪い運気を吹き飛ばしてしまおうというわけだ。シヨ宝玉は林黛玉の凧に連れがないのを心配し、自分の凧の糸も切ってしまう。探春の凧もほかの家の人が揚げていた凧と絡まって糸が切れてしまい、空のかなたへと消えてしまう。これを見て一堂大笑いをするのだった。 曹雪芹が凧揚げの風景をこのように生き生きと描くことができたのは、彼自身、凧にかけては一家言持つ専門家だったからでもある。彼が著した『南鷂北鳶考工記』は、凧に関する教科書とも言えるものだ。彼はこの本の中で何十種類もの凧の骨組みの作り方、糊付けの仕方、絵の描き方、揚げ方などを解説している。それぞれの凧を彩色画で紹介し、その特徴などを説明する口訣(暗記しやすいように韻を踏んだり、字数を揃えたりした文)を添えてある。 北京には金福忠と金淑琴という兄妹の有名な凧芸人がおり、その名は海外にもよく知られている。彼らの先祖は曹雪芹に凧作りの技を学んだ人で、金家の人々は曹雪芹が自ら授けたという『南鷂北鳶考工記』の写本とその技を代々受け継いできた。 凧の前身は「木鳶」というもので、大工の始祖と言われる魯班が発明したと言われている。紙などは使わず、木だけでできていたらしい。魯班は公輸般という名があったが、春秋時代の魯国の人だったことから、後の時代の人は彼を魯班と呼ぶようになった。魯班が生きたのは今からおよそ2500年前の時代なので、凧の歴史もそれに相当すると考えることができる。今からおよそ2000年前の前漢の時代には、木鳶は竹の骨組みに紙や絹の布を張る形になり、名前も「紙鳶」「風鳶」「紙鷂」「風鷂」(「鳶」はタカ、「鷂」はハイタカ)などと呼ばれるようになった。「紙鳶」は長い間、遊びの道具としてだけでなく、戦争の際の通信のためにも用いられた。 唐王朝は娯楽を重んじ、歴代の皇帝も遊び好きな人が多かった。宮廷内のそんな風潮は民間にも影響を与え、この時代、各種の遊びが大いに花開いた。紙鳶に模様を描いたり、竹や葦で作った小笛を取り付けたりするようになったのも、この時代のことだと思われる。紙鳶に取り付けられた小笛は風を受けると心地よい音を出したので、紙鳶は「風筝」(筝は琴に似た弦楽器)と呼ばれるようになった。現代中国語でも、凧は「風筝」と呼ばれている。この時代の凧については、多くの詩人がその詩文の中にうたっているので、それを研究する史料には事欠かない。 唐以降も凧は改良が重ねられ、ますます凝った形のものが生まれた。11世紀の宋の時代になると、都市には専門に凧を売る「小経紀」が登場。16世紀、明の劇作家梁辰漁は凧作りがうまく、彼の作った凧は「鳳凰風筝」として広く知られた。彼の作った凧を揚げると、たくさんの鳥が集まってきたとも言われる。 明末清初の時代もまた凧が大きな発展を見せた時期で、伝統的な鳥類の形をしたものだけでなく、カニ、ムカデ、トンボ、チョウのほか、「福」や「寿」といった字の形をしたもの、さらには劇の登場人物や神様や仙人の姿を象ったものも現れた。 凧はどんな大きさ、どんな形でも、空気力学に合ってさえいれば飛ぶことができるから面白い。だからこそ、真四角で何の絵柄もない豆腐のような凧、手のひらほどのツバメの凧、全長百メートル以上もある大ムカデの凧、精巧な鳳凰やパンダの凧など、色んな凧があるのだ。1950年代に中国とフランスが合作した『凧』という映画では、孫悟空の凧が物語の中で重要な役割を果たした。私が幼い頃は、自分で作った「屁簾」という凧をよく揚げていたものだ。これは四角形の凧に紙の帯を何本かつけただけの簡単なもので、冬に子どもが尻につけた防寒用の綿入れ「屁簾」に形が似ているのでその名がついた。そんな簡単なものでも、子どもたちは存分に楽しむことができたのだ。 しかし、凧は子どもだけの遊びではない。今でも、北京の天安門広場に行けば、おじいさんと孫が一緒に凧を揚げている姿を見ることができる。「凧の都」と呼ばれる山東省ホォ坊市では、毎年春に国際凧祭りが行われており、肌の色や年齢の異なる凧の愛好者たちが、凧揚げの技量を競っている。 ブランコ 宋代の文豪蘇軾は、晩春のころ、少女たちがブランコに乗って遊んでいる光景を描いた詞を残している。 道を行く人が垣根の中から響いてくる娘たちの笑い声を耳にした。垣根の方に目をやると、ふと、空中に娘の姿が現れ、また消えてしまった。彼はその姿に魅了されたかのように足を止め、娘たちの声が聞こえなくなるまでそこに悄然と立ちすくんでいた。
蘇軾はここでブランコについては直接触れていないが、通りがかった人物の思いや感情を通して読者にそれを想像させる。それによってほかの小説や詩歌で描かれるブランコの情景よりもずっと美しく、味わい深い描写となっている。 ブランコの起源については、二つの説がある。ひとつは、山戎(現在の遼寧省西北部から河北省東北部の地域に生活していた古い部族)の遊びを起源とするもので、春秋時代の斉の桓公が山戎を征服した際、これを中原地方に持ち帰ったという。桓公の北伐は紀元前663年のことなので、ブランコの歴史はそれ以来2660年以上続いていることになる。もう一つの説は、漢の武帝の時代に後宮で行われていた遊びをルーツとするもので、当時はこれを「千秋」と呼んでいたらしい。「千秋」は長寿を祝う言葉だが、これが後の時代にひっくり返り、「秋千」と呼ばれるようになった。武帝は紀元前140年から同87年まで在位したので、この説を採ったとしてもブランコの歴史は二千百年近いことになる。 ブランコは大変季節感に富んだ遊びだ。およそ1500年前には清明節(陽暦では毎年4月5日前後)にブランコに乗る風習が生まれたとされる。唐、元、明、清、各王朝の宮廷内では、清明節になると必ず色とりどりの縄で吊したブランコが作られたという。華やかな衣装に身を包んだ人々が集い、二人が向かい合ってブランコの上に乗り、力と呼吸を合わせて漕いだそうだ。ブランコに乗っている人の気分が良いのはもちろん、彼らが仙人のように颯爽と空中に舞い上がる姿は、見ている人たちも大いに楽しませた。「天下随一の遊び上手」と言えそうな唐の玄宗皇帝(685〜762)は、ブランコを「半仙之戯」と呼び、この呼称は民間にも広まった。 ブランコは宮中のみならず、庶民の世界にも広く普及した。その一番大きな理由は、そのつくりが単純だということがあるだろう。貧しい者も富める者も、ブランコを作ることはできる。お金持ちはわざわざ作った豪華な木の枠に縄を吊したし、お金のない人は木の枝に縄を吊せばよかった。どちらのブランコも、空中に舞い上がって仙人のような気分を味わえるという点では同じだった。 男性や子どもが乗ってもいいのは言うまでもないが、中国では昔からブランコの主役は大抵女性と相場が決まっている。封建的な時代、女性は屋敷の中に閉じこもっているものだったので、彼女たちはブランコに乗る爽快感を男性以上に愛したからなのかも知れない。 ブランコはもともと北方の遊びだったが、今では全国に広まった。中国56の民族の中で、もっともスリリングで格好良く乗りこなすのは朝鮮族の人たちだ。中国には少数民族運動会というものがあるが、そこでは毎回、華やかな民族衣装を着た朝鮮族の女性がブランコ乗りの技を披露し、大きな喝采を浴びる。彼女たちは自由自在にブランコを乗りこなし、上空に掛けた鈴を蹴って、その高さを競う。とは言え、彼女たちにとって順位は重要ではないようだ。青空に向かって駆け上がるようなその気持ちよさは、金メダルを首にかける喜びよりずっと優っているのだろう。 空を駆け上がると言えば、中国には昔、万戸という役人がいた。彼はなんとか大空に昇ってみたいと考え、椅子の脚に花火をくくりつけ、点火した。結果はもちろん失敗だったが、現代の天文学者たちは人工衛星に彼の名を付けてその勇気と精神に敬意を表している。 万戸ほどの勇気がある人は少ないが、それでも大空を飛び回りたいという強い願いは多くの人が持っている。凧やブランコはそうした人間の願いが生みだしたものだし、空中高く飛び上がる爆竹やロケット花火などを発明して万有引力にささやかな抵抗をしようとしてきた。ハトなどの鳥を飼い慣らして空に放つ人も、実は自分の願望を鳥たちに託しているのだという。特にハトが群をなし、耳に心地よい鳴き声を上げながら飛んでいる様子を見ると、彼らはまるで自分が大空を駆けまわっているような気分になるのだそうだ。(2002年4月号より) |