魯迅 日本留学から百年 魯迅研究者 孫 郁
少し前、魯迅の故郷、浙江省紹興で催された魯迅を記念する集まりで、私は丸山昇、阿部兼也、竹内実といった先生方に会った。彼らの発言を聞いていて、日本の中国学の学者の間では、魯迅に対する思い入れが非常に深いことを発見した。これはおそらく、両国の文化や両国民の心理と関係があるのだろう。 1920年に、青木正児が『支那学』で初めて魯迅を紹介して以来、日本の学者たちは魯迅を重視し続けてきた。それは今日まで中断したことがない。中でも、竹内好、丸山昇、伊藤虎丸、尾崎文昭、丸尾常喜らは、みな後世に伝わるすばらしい文章を残している。その業績は、中国の学者に決して劣ることはない。 魯迅の存在は、中日の学者間の交流にとって特別な意義がある。少なくとも私は、魯迅を通じてだんだんと日本を理解してきた。東アジアの隣国に対する私の基本的な思いは、時に魯迅の色に染められている。また、一部の日本の友人が中国を観察した著作を読むと、たいてい、魯迅の暗示を受け入れていて、ものを見る角度やその結論は、みな悲壮感の漂う色調を帯びている。だから私はときどき、近代からこれまでの中日の文化交流史を語るとき、我々は魯迅と離れることはできないと考えるのだ。魯迅と中日両国の近代化との相互関連については、簡単には語り尽くせない。 伊藤虎丸は、『魯迅と日本人』という専門書を著したが、これは一読に値するものだ。この本は、アジアの近代化と「個」の思想について詳細に研究している。その立論は新鮮である。日本の学者は魯迅を借りて、自国の近代化の欠点を反省している。こうしたことは、中国の知識人にはほとんど理解できないだろう。 魯迅と日本の関係は、実は簡単な東アジアの文化交流の関係ではない。それは、一種の「受け身の近代化」を暗示している。伊藤虎丸の理解によれば、魯迅の「個」の思想は、西欧近代の精神の原理であり、我々相互の本国である中国や日本の文明を超越したものである。この発見によって、魯迅の精神に内包されているものが拡大された。 竹内好の書いた文章のうち、一部翻訳されたものを読んで、私は非常に感動した。伊藤虎丸も自分の著書の中で、この竹内好という思想家の話をこう引用している。 「日本の社会の矛盾がいつも外へふくれることで擬似的に解決されてきたように、日本文学は、自分の貧しさを、いつも外へ新しいものを求めることによってまぎらしてきた。自分が壁にぶつからないのを、自分の進歩のせいだと思っている。そして相手が壁にぶつかったのをみると、そこに自分の後進性を移入して、相手に後進性を認める。ドレイは、自分がドレイの主人になろうとしているかぎり、希望を失うことはない。かれは可能的にドレイではないから。したがって自分がドレイであることの自覚もうまれない」(竹内好著『魯迅と日本文学』から) 竹内好のこうした自国に対する反省は、たいてい魯迅の啓発を受けたものだろう。そしてまた、魯迅の思想の形成も、日本からの橋を通じて自然に完成したに違いない。そうした相互作用は、我々中日の知識人にとって非常に重要である。我々はこうした相互理解によって共通点に達することができた。 大江健三郎の文章を読むと、私はこのような手ごたえを感じる。彼の批判精神は、魯迅のものと明らかに似通っている。自分自身について考えるという点においても、中日の知識人の間にある種の共通点があると思う。
80 年代、中日の学者たちが書いた魯迅に関する論文や文章は、非常に多く、数え切れないほどある。増田渉、山本実彦、池田幸子、鹿地亘、内山完造らの魯迅を回顧した文章や、竹内好、丸山昇らの教授の著述は、日本における魯迅学を構成している。一般に日本の学者は、史料を重視し、思弁を軽視すると言われているが、私は増田渉や丸山昇、伊藤虎丸らの著作は、一部の中国の教授に劣らぬほどの卓見であると思う。 先ごろ、丸山昇の講演を聴いた。「20世紀に生きた魯迅が21世紀に残した遺産」という題で、すばらしい講演だった。その講演で丸山昇は魯迅を借りて、未来に対する憂慮を語った。動乱にあったり、希望が一つ一つ失われていったりした後、彼は、自分もまた、当時の魯迅のように窮地に陥ったと感じている。 こうした感覚を、北京大学中文学部の銭理群教授も語っている。中日両国の学者が、人類や自分自身の運命について深く思考したとき、期せずして同じ結論に達した。このことは、我々が、似通った文化面での期待感を抱いていることを意味している。 丸山昇の魅力は、自分自身が絶望との抗争の中で、魯迅の世界にしっかりと密着し、離れないことだろう。彼の見識の中から、私は一種の人間性の力を感じることができる。 「現在この言葉は、日本人に特別な意義を持っていると私は思う」と、講演で丸山昇は述べた。「それだけではない。問題を『それぞれの民族』として捉えるのも、人類共通の弱点から来ている。人類が21世紀に直面する最大の問題の一つは、各民族の『民族主義』の衝突をいかにして解決できるかだ。2、3年前、私は中国の学者と雑談したが、21世紀の展望に話が及んだとき、一人の先生が言ったことが私に深い印象を与えた。彼は、各国、各民族とも、民族主義が高揚する傾向にあることを憂慮し、21世紀の展望は悲観的だ、と述べた。私も同じように感じている。こうした状況の下で、魯迅が負の伝統に対し、彼の言葉を借りれば『血管の中のかく乱分子』に対して徹底的に批判することは、時代遅れではなく、改めて思い起こす価値があるものだ」と主張した。 丸山昇のこうした発言は、まさに日本の良心的知識人の、感動的な心情の吐露であった。中国人の学術講演で、こうした話を聞くことはきわめて少ない。丸尾常喜、北岡正子、阿部兼也ら日本の学者の文章にも、同じような精神が感じられる。 東アジアの学者にとっての魯迅の意義は、アジアの近代化の問題にとどまるものではない。彼は一定程度、人間の本質にかかわる困惑や、この困惑に対して人類がとるべき態度を示したことである。この百年の間に、日本も中国も、みな軍国主義、独裁主義、民族主義による被害を受けた。また、いろいろな政治的な熱狂を経験してきた。しかし、苦難の中に身を置きながら、誰も魯迅のようにあれほどはっきりと、現実と人間とのかくの如き矛盾や虚無の影を発見し、かつまた生涯をかけてこの影と非妥協的な抗争をした者はいない。 もしこの百年の間に、思い出す価値がある話題をあげるとすれば、魯迅が我々に暗示したものではなかろうか。
数年前、私はある友人に、どうして多くの日本人は、魯迅が好きなのに、魯迅の弟の周作人はそれほど好きでないのか、と尋ねられた。そのときは答えられなかったが、後に日本の学者の文章を読み、もう一度、魯迅と周作人の著作を読み返してみて、ぼんやりとわかってきた。
それは、自我を直視する魯迅の勇気は、常人が到達することができないものであるということである。周作人が人々に提供するのは、大部分が常識的なものである。魯迅は、常識の力を備えているばかりでなく、彼の根本には、常識を超越した奇抜で優れた精神がある。魯迅は常々他人を批判するばかりでなく、絶えず自己反省をし、いわば「心を抉り出して食べる」ような人間なのだ。 30年代、増田渉が魯迅に「魯迅論」を書きたいと言ったところ、魯迅はすぐに鄭板橋(清代の画家、文学者)の詩の一句を書いて与えた。それは「掻痒不着賛何益 入木三分罵亦精」(掻痒するところに不着ならば、賛めるとも何ぞ益あらん 入木すること三分ならば、罵るともまた精なり)という句であった。 この詩の意味は、痒いところに手が届かないようなものに、賞賛のことばがきをしても何の益もない。王羲之の書が版木に深く染み透ったような立派な著作であれば、罵りであってもすばらしいことだ、という意味である。 増田渉は後にこう回顧している。 「魯迅はこの句を用いて私を教え導いたのだ。それは批判に会う準備をしなければならないが、もっと重要なのは、努力して批判することだ、ということだ」 こうした自ら進んで拷問を受けたいという自省の精神は、決して人がみなできるものではない。だからこそ中日両国の一部の優秀な知識人がいつも魯迅を模範とし、独立自省の精神を保ち、世俗に組しない道を歩んでいるのだ。ここにこそ批判的精神の意義を見て取ることができる。
世界的視点から見れば、日本の学者は魯迅研究に貢献している。もし、中国の新文学の父である魯迅に対して、異なる観点からの彼らの見方がなければ、魯迅研究というこの学問も今日のように豊富多彩なものにはならなかっただろう。日本の作家や学者は魯迅の気質を、もっと直感的に把握できるようだ。 竹内好の論述や丸山昇の解釈はどれも、研究の視野を豊かなものにした。もし魯迅研究史を論じるならば、これらをなおざりにするわけにはいかない。 百年という短い間に、魯迅が我々に残した話題は、時代を超越したものである。魯迅を理解するには、日本と離れることはできない。これも私が多年、日本の学術に留意したいと思ってきた原因の一つである。(2002年5月号より) |