北京 出稼ぎ労働者の子らにも教育の光が

                         
写真 文・魯忠民

月曜の朝、学校では恒例の国旗掲揚式が行われる

 

 

 北京市の西部、広々とした平地をつらぬく西四環路沿いに、雑然とした胡同(横町)がある。そこに置かれているのが、出稼ぎ労働者の子どもたちの学校「北京行知打工子弟学校」だ。見るからに粗末な木造校舎からは、時おり、子どもたちが元気よく朗読する声が聞こえてくる。

 事務室兼宿舎だという校長室を訪ねると、この学校を創立した李素梅さんと彼女の夫で現校長の易本耀さんが、教材をうずたかく積んだ事務机の前で忙しそうに働いていた。夫婦は2人とも40歳前後で、河南省の南部、息県の出身だ。易校長は高等専門学校を卒業し、北京に来る前は県の食糧局で働いていた。夫人の李さんは以前、教鞭を執ったことがあり、1993年に野菜売りの出稼ぎのため、北京へとやってきた。早くから北京に出稼ぎに来ていた李さんの兄妹は、故郷から連れてきた子どもの教育問題に頭を悩ませており、李さんに学校を創立してもらおうと何度も懇願していた。

学校から遠く離れた家では、親が出勤前に子どもを送りとどける

 94年9月1日(中国の入学式の日)、北京市郊外の野菜畑の一角に、ほったて小屋を教室に、レンガや板を机やイスにした小さな学校が開校した。李さんが創立したこの学校は、労働者の子ども九人を生徒としたスタートだった。

 思いもよらなかったのは、学校創立のニュースが出稼ぎ労働者たちの間に広まり、入学希望の子どもたちが続々と送られてきたことだ。学校はみるみるうちに拡大発展した。李さん一人では手が足りなくなり、易さんも退職して北京へとやってきた。

全国各地から集まった労働者の子どもたち。その多くは農村から来ており、都会の児童に比べると身なりは貧しいが、むじゃきで元気いっぱいだ
通学途中の子どもたち。学校の周りは出稼ぎ労働者の家が密集している

 学校運営は、じつに厳しいものだった。これまでに3回の移転を余儀なくされ、現在はすでに使われなくなった古い工場(約4000平方メートル)を校舎として借りている。ここ数年、学校は徐々に整備されてきた。学齢前児童クラスや小学生、中学生の各部が設置されて、しだいに北京で最大の出稼ぎ労働者子弟学校へと発展した。

 全校児童は3200人。9年制の義務教育と学齢前教育を行う学校として、国家教育部(日本の文部科学省にあたる)が制定する学習指導要領に沿った全コースを開設、北京市の一般的な小・中学校と同じ教育計画を実施している。

 易校長によれば、現行の9年制義務教育の規定では、学齢児童は原則として、戸籍の所在地において入学し、その教育費は当地の政府がまかなうことになっている。しかし、市場経済の発展により、農村の余剰労働力が大量に都市へと流れ込んでいるのも事実だ。

 現在、全国の流動人口は1億人近く、北京に入った流動人口は300万人あまり、彼らの子どものうち学齢の児童が10万人あまりと考えられている。児童の義務教育費は、移転先へと移すわけにはいかないし、児童の教育をすべて移転先の公立学校にゆだねるならば、学校側に大きな負担がかかることは間違いない。そのため、中には転校生から「賛助費」や「借読費」(他の学校が委託されて学業を履修させる費用)を徴収する公立学校が出てきたのである。

 地方からの出稼ぎ労働者、とりわけ低額所得者の場合は、子どもを都市の公立学校に転校させたくても、学費が高くて手が出ない。貧しさのために入学できないか、たとえ入学できたとしても、その多くは中途退学せざるを得なくなる。そのため要求が徐々に高まり、私設の出稼ぎ労働者子弟学校が全国各地に生まれ始めたのである。

臨時に使った校庭が、みるみるマンションに取り囲まれてしまった。学校はまた転居を迫られている

 こうした現状に対応しようと、国家教育委員会は98年、『流動児童少年の就学臨時規則』を発表、「流動児童少年の就学は、おもに移転先(の学校)が管理すること」という通達を出した。また、国民個人が「流動児童少年を専門に募集する学校、または簡易学校を開設すること」を許可した。こうして、出稼ぎ労働者の子弟学校もしだいに社会から認められるようになったのである。

 大まかな統計によると現在、北京にある出稼ぎ労働者の子弟学校は、300カ所を超えている。学齢の流動児童の就学率はすでに90%に達し、そのうちの70%は出稼ぎ労働者子弟学校で学んでいる。

学校の創設者・李素梅さんとその夫で校長の易本耀さんが、忙しく仕事をしていた

 行知学校の学費は、他校と比べてもかなり安いものだ。小学生と学齢前児童は毎学期一人あたり300元(1年2学期制、1元は約15円)、中学生は毎学期1人あたり600元だ(もし正規の学校に移転児童が入る場合は、借読費に600元、賛助費に3500元か、それ以上が必要となる)。孤児、障害児童、特別困窮児童、被災地児童、片親の家庭や教職員の子どもなど、これらの立場の児童生徒は、学校側が学費を免除にする。

 しかし教室の借用料など、学校側の負担は相当な額に上っている。教育設備を整える経費もなければ、正規の学校のようにさまざまな課外活動を行うことも、教育条件を改善することも難しい。

「遅刻しました!」

 ここ数年、行知学校の苦しい運営は国内外に知られ、広く同情を集めることとなった。支援の手が続々と差し伸べられ、学校運営に対して寄せられたアドバイスや資金・物資が、しだいに危機に瀕した学校を救っていった。

 96年9月、『華声月報』の記者である曹海麗さんは、行知学校を取材し、その感動を熱のこもった筆致で伝えた。遠くはアメリカのロサンゼルスに住む華僑の任玉書さん(80歳)が、報道を目にして涙を流し、行知学校に20万元を寄付してくれた。

 同年2月には、流動人口の研究にあたる趙樹凱さんが訪れ、貧困地区でしか見られないようなここの教育環境を目の当たりにして、感無量になった。彼は、テレビ局の記者を取材に呼んだばかりか、貧困救済基金会に連絡して机やイスを寄贈したり、大学生を動員し、義務(必修課目)として授業を受け持たせたりした。

教室はいたって狭い。時には5、60人が押し込められてしまう

 また、中国の「陶行知教育思想研究会」の会長・方明さんは、学校を「行知」と名付けてくれた。貧しい人たちのために学校をつくった有名な教育家・陶行知氏のような人物をめざすよう、教師たちを激励するためであった。

 易校長は、感激した面持ちで語った。「どんな支援にも、感動の物語が一つひとつ込められている。それはお金や物を贈るだけにとどまらない、心が強く揺さぶられるような物語なのです!」 

教師たちも同じように粗末な教員室で、答案の採点をしている
簡単な遊びでも熱中する子どもたち

行知学校に勤める169人の教師は、全国十数の省と市から集まっている。学校には当初、低学年クラスしかなかった。そのため、教師の多くは校長が郷里から連れてきた親戚や友人で、教育の経験もほとんどなかった。規模の拡大にともない、学校は学歴や教育経験のある比較的高いレベルの教師を、広く社会から求めるようになった。

 現在、高等専門学校卒業以上の学歴を持つ教師が78人、高級教師が19人、教師を兼任する大学生が9人勤めている。月給は700〜1200元。北京にある正規の学校と比べると、半額近くも安い賃金である。

 環境や待遇の面でなお善処が求められるものの、教師たちの児童への愛情にはなんら変わりがないようだ。1年生を教える范先生は、東北地方のある師範専門学校を卒業した。話が子どもたちのことに及ぶと、目を輝かせて言った。

学期末には、教師が児童一人ひとりに成績表を手渡しながら、いっそう努力するよう激励する

 「子どもたちはとてもかわいい。子どもたちに好かれたら、あなたもすぐに友達になれますよ」。授業を早めに終えると、子どもたちに物語を話して聞かせる。放課後は、子どもたちといっしょにジェンズ(羽つきの羽のようなものを蹴る遊び)や縄跳び、ダンスなどをして遊ぶ。

 20歳の汪廉さんは、首都師範大学で英語教育を専攻する学生だ。必修課程の一環で、ここで教鞭を執っている。子どもたちの家庭の貧しさや一生懸命学ぶ姿を見るたび、彼女の胸はいっぱいになる。クラスには、ほとんど「太った」子がいないし、着ている服といえば多くが十数年前のもので、かなり着古されているからだった。冬になっても、教室にはスチームの設備がない。すきま風がひどいせいもあって、教室で石炭ストーブをつけると、すぐにむせ返るような煙のにおいが立ち込めてしまう……。

 しかし、こうした厳しい環境で育つ児童を、汪さんはこう見ている。

ほとんど何の体育設備もないが、運動場には子どもたちの笑い声が絶えない

 「ここの男の子たちは、正規の学校の児童よりもずっと元気がいいし、勇敢で、責任感が強いのです」。貧しさが彼らの豊かな経験を養い、向上心や自己処理能力を培っているのである。彼らには自ら石炭ストーブをつけ、学習用の用具をつくり、壊れた戸や窓を修理する力があるのだ。

 入学したばかりのころは、異なる地域や家庭から集まった子どもたちのレベルがバラバラだ。「2」という算用数字が書けない9歳の子どももいた。しかし教師たちは厭うことなく、しんぼう強く、手に手をとって教えている。

子どもの知識欲はいたって旺盛だ
労働者の子どもたちだけに、みな掃除が得意だ

 一部の児童は、学校から家が遠く離れている。そのため毎朝五時には起床し、通学途中はバスを2、3回乗り換えて、ようやく学校にたどり着く。安全の面から、学校側は生徒の一人ひとりに、首にかけるカードを手渡した。自分一人で帰宅する時には、教師と親の双方のサイン(許可)を必要としたのだ。

 子どもたちの作文には、生活する上での独特な理解が記されている。

 「両親が汗びっしょりになって働いている時、私はいつも思います。『お父さん、お母さん、本当にお疲れさまです! 大きくなったら必ず、私を育ててくれたご恩に報います』と」

学校には食堂もある。ご飯もおかずもとても安い
低学年の場合は、教師が教室で食事を分けてくれる

 また、ある子どもは、「大きくなったらお金をもうけて、労働者子弟学校をたくさんつくります。入学できなかった幼なじみを改めて迎えてあげたいのです」。教師や学生たちの努力によって、児童生徒の成績も上がり、教育レベルも都市の正規の学校に大きく近づいた。

 出稼ぎ労働者の子弟学校は、彼らの教育の基本的な要求をある程度満たすものである。しかし、多くの教育家が指摘するのは、「学校の教育方法が規範をはずれており、教育の質も低い。またその多くが、児童の非識字率を抑えるという低レベルを維持するのに精一杯だ」ということだ。

 流動児童の教育問題は、すでに各界の高い関心を集めている。2000年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は北京市社会科学院に対し、社会において不利な境遇にある児童の教育問題を、専門的に調査・研究するよう委託した。また、中国労働力資源開発研究会の専門家たちは、都市においてますます大きくなるだろう移住者二世の教育問題を重視している。各地の政府も政策をかえ、戸籍政策を改革し、流動児童の就学について積極的に取り組んでいる。

静岡県庵原郡日中友好協会の寄金により、教育設備や学習用品が贈られた。プレゼントを直接手渡す本社役員(写真・馮進)

 出稼ぎ労働者の子どもの教育問題は、近い将来、かならず正しく解決されるに違いない。

 このほど、北京で開かれた全国人民代表大会(全人代、国会にあたる)では、多数の代表から、「出稼ぎ労働者の子どもたちの就学問題を、一刻も早く解決しよう」との提案が出された。

 4月6日付の『北京日報』によると、「北京市の努力を通して、出稼ぎ労働者の子どもたちの公立学校入学問題は、ほぼ解決した。市政府は、出稼ぎ労働者の子どもたちの入学にいっそうの便宜を図り、市民の子どもと同じ待遇を与えることを明記した関係書類を提出する」という。(2002年6月号より)