|
前田さんは、崑劇の著名俳優・張毓文先生のもとで、立ち回りや歌を学んで十年以上になり、その透きとおるような歌声、メリハリのある演技に定評がある。今年夏には北京師範大学で中国戯曲文学の博士号も取得する予定だ。彼女が所属する崑劇愛好者団体「日本崑劇之友社」は、演目の楽譜整理や録画・録音などの保存活動のほか、これまでに20回以上の公演を行ってきた。
|
|
崑劇といわれても、ピンと来ない人は多いだろう。それもそのはず、中国人ですら、その何たるかを説明できる人は少ない。崑劇とは、京劇などの地方劇に大きな影響を与えたといわれる伝統芸術で、その格調の高さや難解さから、大衆的な京劇などにその地位を奪われ、いまでは消滅の危機すらささやかれている。しかし昨年五月、ユネスコの世界無形遺産に指定されたことで、国内外から再び熱い視線が注がれるようになった。
日本で商学を専攻し、ビジネス界で活躍するために、外国語の素養を身につけたいと考えていた前田さんは、89年3月、将来のマーケットとして魅力を感じていた中国に足を踏み入れた。クラシックバレエを習い、ミュージカル鑑賞も好きだった彼女。隣人の歌声に心を奪われるのに、それほど時間はかからなかった。
「隣の部屋から聞こえてきた歌声を聞いて、メロディーが美しい、ユニークだなって興味を持ち、習い始めたのが崑劇でした。でも、あの歌声は京劇のものだと思っていたので、『崑劇という芝居』の張毓文先生を紹介された時には、がっかりしてしまったくらいです。それでもなぜ続けたかですか? 京劇の前身である崑劇をやっていて損はないっていう、先生の言葉に乗せられたからですよ(笑い)」
|
『百花点将』の百花公主を演じる前田さん(写真提供も) |
そう懐かしそうに語る前田さんの初舞台は、91年、当時聴講生として通っていた中央戯劇学院の教室だった。先生や一緒に学んでいた中国人俳優が、まだ初心者だった彼女でも主役を演じられる演目を選んでくれたそうだ。中国の伝統芸能の敷居は比較的低く、興味を持てば誰でも自由に学べる環境がある。中国京劇院では、日本人プロ俳優・石山雄太さんも活躍している。
「日本の伝統芸能は、世襲制を重んじ、中国ほど開放的ではないように見えます。一方中国の伝統芸能には、保存のノウハウが不足していますから、日本の経験から学べるものは多いと思います。それぞれの良さが見えてきた今、お互いの国の作品を単純に鑑賞し合う時代は終わり、それぞれが補完し合う時期が来たのではないでしょうか」
もちろん、伝統芸能を外国人が演じる際には、越えがたい壁もある。また、文化背景や美的感覚の違いから、作品理解の上での衝突も絶えない。昨年末、「中日国交正常化30周年記念」と銘打って行われた公演の準備段階でも、意見がぶつかったことはあった。
「崑劇の今後のために、素人で、しかも外国人だからこそできることがあると思うんです。昨年の公演で、30年間演じられなかった名作『雷峰塔』を掘り起こせたのも、『中日国交正常化30周年』という大きな文字を印刷した旗を使って、遊び心のある演出ができたのも、愛好者の私たちだからです。地道な保存活動はもちろんですが、崑劇界に一石を投じられる活動を続けていきたいと思います」(取材
構成・坪井信人)(2002年6月号より)
|