上海市内を流れる蘇州河は、上海を支え、中国の工業発展の歩みを見守ってきた河だ。長年の間に汚染され、黒いリボンのように市内を漂っていた蘇州河だが、今では徐々に浄化されつつある。2001年には数十年来、見ることのなかった魚たちが戻ってきたのである。
|
蘇州河とその両岸に広がる風景 |
蘇州河の上流・呉淞江をさかのぼると、江蘇省蘇州市の宝帯橋に達する。さらに、その流れは京杭(北京―杭州)大運河へと通じているため、その全長は百二十五キロにも上る。
バ蟻浜は、上海市郊外を流れる蘇州河の支流の一つだ。?蟻浜の河辺に住む農民たちは、昔からそこでアヒルを飼ったり、河川を引いて野菜栽培をしたりしてきた。
1975年ごろのことだ。アヒルの一部に羽をダラリと垂らし、びっこを引いて歩くようすが現れた。78年には疫学調査が行われ、この河のカドミウムが標準値を327倍も上回っていたことが判明。調査結果を見た当時の担当副市長の顔は、青ざめた。
カドミウムは亜鉛と同族の金属元素だ。鉄製品のメッキ材料や、ニッケルカドミウム電池などによく用いられる。人間は、カドミウムを過剰摂取した場合、「イタイイタイ病」にかかる可能性の高いことが指摘されている。この病気は55年に初めて、日本で発生した。
患者は「イタイ!イタイ!」と全身の激痛を訴え、衰弱死する。骨の軟化と萎縮がはげしく、身長がもとの三分の一まで縮んでしまった人もいた。富山県神通川流域の農村地区に暮らす人々が、カドミウム濃度の高いコメを食べたことなどから数百人規模で発生、死亡者もかなりの数に上った。六八年には、この病気をカドミウムに起因する「公害病」と認めた厚生省(当時)見解が発表された。
バ蟻浜のアヒルは同様の病気にかかったものだという。そして、そのカドミウムも工場廃水によるものだった。五八年からバ蟻浜流域には、いくつかの電気メッキ工場が集まり、工場廃水はそのままタレ流された。水系は縦横に通じ、やがて蘇州河へと流れ込んでいる。
当時、この重大な汚染事件は公表されなかったが、今では学校の教科書にも記述されるようになった。蘇州河は一時、上海を貫く53キロにわたって悪臭が漂い、黒々とにごった水がよどんでいた。上海市の指導者たちは、環境汚染の問題がすでに限界に達していることを痛感した。
|
工場や住宅、水上生活者の船が密集する改善前の蘇州河 |
蘇州河の汚染問題は、近代になり、工業化が進んだことから発生したものだ。1860年、中国に進出したイギリス人企業家が、蘇州河にかかる新閘路橋たもとの南岸に硫酸工場を建設した。15年後には、新聞『申報』の創始者アーネスト・メイジャーとその兄弟も参入し、アメリカとイタリア・シチリア島からイオウ原料を輸入、硫酸、硝酸、塩酸などを生産するようになった。その後、租界当局が蘇州河の環境汚染を懸念し、工場の移転を命じたために、メイジャー兄弟は当局の管轄下にない北岸の華界(中国人の居住地)に工場を移転した。
中国人自身による早期工業は、中日甲午戦争(1894〜95年)前に、蘇州河北岸に生まれた。その後、第一次世界大戦をはさんだ1912年から25年までは、中国工業は大きな発展のチャンスに恵まれた。大戦のため、欧米列強が中国を顧みるどころではなかったからである。
蘇州河の河沿いは当時、煙突が林立し、機械がゴウゴウとうなりを上げていた。船も盛んに往来した。中国の新詩運動の提唱者・郭沫若は、留学先の日本から帰国した際、上海で河岸に林立した煙突をながめながら、次のような詩をよんだ。
「ああ、巨大な煙突の中 20世紀の文明の黒い牡丹が咲いている」
多くの学者は、蘇州河の環境が当時もっとも悪化したと考えている。1920年には、市内を流れる蘇州河の一部には、悪臭をともなうヘドロのかたまりが発生した。28年ごろには、蘇州河両岸の人口はすでに200万人に達し、生活排水や工場廃水、農閑期には不要になった人糞肥料が、いずれも河に流された。だが、当時の河の自浄能力は、汚水量をまだ上回っていた。ある大学生の記録によれば、放課後によく彼らはその河で泳いだものだという。
|
かつて船の生活排水はそのまま河に捨てられた |
37年8月、日本軍が上海に攻め入った「上海事変」により、中国工業のゆりかごは戦火の中で消滅した。その後、蘇州河の汚染は自然浄化したこともある。蘇州河で漁をしていた顧金才さんは言う。「42年ごろ、下流の曹家渡一帯で魚を捕ったことがあるよ。ウナギやカニが多かった」
上海の環境保護学者たちは、「蘇州河の急激な環境悪化は、1950年代にはじまった」という見解で一致している。当時、河の両岸にあった工場は隆盛をきわめ、とくに重工業が急速に発展した。蘇州河流域には千社ほどの企業やその工場が集まり、人口は300万人を超えた。
現・上海環境保護事務室の陳江涛主任は、次のように語る。
「50年代末ごろ、蘇州河はもはや上海の胸を飾る黒いリボンでした。流れが弱いので、満潮時には水が奥へと押し戻された。それで『黒いリボン』がいつもよどんでいたのです」
上海市政府は50年代から、汚染問題を重視しはじめた。「蘇州河の水を灌漑に利用する案」を試行したこともある。はじめは効果が上がり、作物の生産量も増加したが、しだいに河の水を使った作物がみな枯れるようになった。河川の汚染濃度がかなりの高さに上っていたのだ。
|
姿を消していたカニがふたたび蘇州河に戻ってきた |
当時のソ連と中国の専門家たちは、「汚水を蘇州河の支流を通して、市区外から呉淞江の河口の外へと流す案」を考えたが、それには莫大な費用がかかり、後の中ソ関係悪化も手伝って、その案は棚上げになってしまった。かろうじて行われたのが「汚水処理工場を数カ所建設する」案だった。
「文化大革命」の時期になると、蘇州河の汚染は全国的に有名になり、上海市の指導者たちはすっかり面目を失った。数万人を動員し、「蘇州河と戦う」キャンペーンを張って河底をさらったが、倍の努力で半分の効果しかなく、蘇州河の汚染は悪化する一方だった。
70年には、上海の南北に一本ずつの下水道を設けたが、工事は不完全に終わった。70年代末から80年代初めは、郷鎮企業(町村単位の企業)が興ったことから、蘇州河の汚染がさらに加速した。81年、上海市郊外の嘉定県黄渡鎮に住む漁師たち、つまり蘇州河に残った最後の漁師たち50余人が、ついに職を失った。
80年代初め、「イタイイタイ病」のアヒル発生事件により、蘇州河の汚染浄化を求める声が高まった。しかし、上海市の指導者はまず、蘇州河よりも蘇州河が注ぎ込む大河・黄浦江の浄化を決定した。同市の水源・黄浦江にもヘドロがたまり、年の半分は汚水に覆われていたからである。
また、上海に進出をはかる欧米や日本、香港、台湾の投資家たちも、上海の水を飲まずに飲用水を持参していた。そのため、黄浦江の浄化と、上海の飲用水の改善がより重視されたのである。
|
蘇州河の両岸はいま、住宅産業が盛んだ |
しかし、財政問題はやはり高いハードルだった。当時の中国経済は回復期にさしかかっていたが、上海市政府には資金がなく、中央政府からの借入も不可能だった。そうした中で、当時の汪道涵・上海市長は、妙案を考えついた。金融に詳しい汪市長は、「インドは毎年、世界銀行から10億米ドル(一ドルは約135円)も借り入れている。我々も、その低金利貸付を使わない手はない」と提案した。
82年、世界銀行アジア太平洋地域の総裁が、その「黄浦江プロジェクト」のために上海を訪問。国外の専門家とともに調査研究を何度も行い、「黄浦江の浄化はまず蘇州河からである」という結論を導き出した。というのも黄浦江の汚染の50%は、蘇州河から流されたもので、蘇州河の浄化はやはり急務だったからだ。
翌83年の契約で、プロジェクトの重きは蘇州河におかれた。それは「蘇州河合流汚水第一期工事」と呼ばれる、中国初の世界銀行との契約だった。世界銀行と上海市は、同プロジェクトに合わせて16億元(1元は約15円)を投じた。
プロジェクトが行われたのは、江沢民氏が共産党上海市委員会書記を、朱鎔基氏が上海市長をそれぞれ務めていた時のことだ。
朱鎔基氏は同プロジェクトをよく、「上海市民への借金返済」になぞらえていた。一日も早く市民を苦しみから救いたい、という気持ちの表れだったのだろう。
プロジェクトでは、蘇州河北側の一帯、約70平方キロに住む255万人の生活排水を、蘇州河やその支流に流れ込まないよう、下水管を通して呉淞江河口に送った。また、長江水底に排出した。このプロジェクトは五年ががりで進められ、93年に完工した。
やがて水の色が徐々に回復してきたが、なお完全な浄化ではなかった。また当然ながら、汚水が流された郊外の汚染はひどくなる一方だった。蘇州河の浄化には莫大な資金が必要で、市政府のかじ取りにもさらに期待が高まった。
市政府は九六年、「2000年には蘇州河の基本的な汚染を取り除く」「2001年には清らかな河の流れにする」などの目標を決定。この総合改善計画を実施すれば、経費は200億元以上に達するとまで言われた。
上海市はここ数年、環境保護への投資が国内総生産(GDP)の3%に上っていたが、その大半は水の浄化工事に使われた。
上海市は、98年から蘇州河の環境改善にさらに力を入れた。2000年(5〜9月)には、長江や黄浦江の上流から清水を引き込み、ポンプを使って蘇州河へと注いだ。長年にわたりよどんでいた汚水は、数回にわたる水の交換で海へと流された。
その年の8月、蘇州河にはウキクサや小魚などの水生動植物が戻り、周辺住民も初めて悪臭を覚えなくなった。水の色も濃い鉛色から徐々に緑色へと変わり、主流のヘドロと悪臭もほとんど消えてなくなった。蘇州河と黄浦江が合流する場所は、黒と黄色の流れが交わることから、上海っ子たちに「両夾水」(二重の水)と呼ばれていたが、そうした現象もほぼ消滅した。
蘇州河の浄化にともない、両岸の住宅不動産の価格もうなぎのぼりに上がり、2年ほど前から「蘇州河をのぞむ住宅」という言葉が、不動産業者のキャッチフレーズとなった。沿岸の住宅価格はすでに、市内価格の平均を超えている。(2002年6月号より)
|