中日の懸け橋となった日本女性
伊藤克の生涯


                   翻訳家・文潔若

北京で活躍する伊藤克
 1982年の夏、日本で教科書問題が起こった時、伊藤克は、かつて教鞭をとっていた東京の日中学院に招かれて、「日中戦争と私」というテーマで講演した。彼女は自分自身の体験を通じて、聴衆の中国語を学んでいる日本の若い人たちに、日本の軍国主義が行った犯罪行為を訴えた。そして、この侵略戦争で中国が大きな損害を蒙ったことを訴え、この歴史を再び繰り返してはならないと強調し、最後にこう締めくくった。

 「若い皆さんにとって、日中戦争は遠い過去の出来事であり、あなたがたはこの戦争とまったく関係がないわけです。ですから、よくこういうことを耳にするのです。『それはあんたたち大人のやったことだ。私たちには関係ないことだ』と。親たち、または祖父母たちが犯した罪を背負いなさいと、私はあなたがたにはいえません。なぜなら、それは私たちが悪かったから、私たちが侵略戦争を阻止できなかったからです」

 「あなたがたはこの学院で中国語を学び、将来は日中友好の懸け橋になろうとしている人たちです。だから、私はあなたがたにお願いしたい。こういういまわしいことが、あなたがたの時代、あなたがたの子ども、孫の時代に、二度とふたたび起こらないように、今からまわりに気をつけていてほしいと」
 
「たとえば今回の教科書問題。知らないうちに"侵略"が"進出"に変わっている。これはとても危険なことです。こういう、ふたたび台頭してきた軍国主義の芽を、私たちといっしょに双葉のうちに摘みとってほしい。私たちが阻止できなかったこと、それが今後、ふたたび起こらないように、力をあわせて阻止してほしい。親は子に、子は孫に伝えて、子々孫々までの日中友好を実現していただきたい」

 講演は、盛大な拍手のうちに終わった。年輩の講師の先生がたはもとより、若い学生たちもみなしきりに涙をぬぐっていた。伊藤自身も感動にふるえた。この拍手、この涙がある限り、子々孫々までの日中両国の友好関係は必ず維持されていくに違いない、と伊藤は確信した。

 この年の12月、長く中国で暮らした、日本文学の女性翻訳家、伊藤克の自伝『悲しみの海を越えて』が出版された。この本は本当のことが書かれていて、感動的であり、正直で善良な一人の日本女性が率直に自分のことを書いたものである。

 伊藤克は1915年に東京で生まれた。13歳のとき、医者をしていた父親が亡くなり、残された少しばかりの財産は、叔父に騙し取られてしまった。そのため彼女は学校を中途退学し、デパートの店員や母校の淑徳高等女学校、丸の内ホテルなどで働かなければならなかった。当時の日本は、大学卒さえ失業するほどで、彼女のような若い娘がどうやって、未亡人となった母親や弟、妹を食べさせていったらいいか、それは容易なことではなかった。

1982年末、伊藤克の家を訪れた筆者(中)、右は伊藤、左は作家の李芒

 絶望のどん底で苦しみもがいていたとき巡り会ったのが蔡であった。蔡の父は華僑で、大阪でレストランを開いており、母は日本人だった。蔡は大阪帝国大学の冶金科を卒業し、自分の技術を貧しく遅れた祖国のために役立てたいと真剣に考えていた。

 伊藤の父は、生前、中国が好きだったから、彼女に漢文を教えた。それで彼女は小さいころから中国に対して深い思いを抱くようになっていた。蔡と結婚したあと彼女は、1936年、非常に苦しい状況にあった中国に渡った。太原に向かう汽車の中で、彼女は一人の日本軍人と乗り合わせた。彼女はそれまで、軍人は尊敬すべきものと考えていた。しかし中国では、日本の軍人たちは傲慢無礼で、服装もだらしなく、汽車の切符さえ買わず、勝手気ままに振る舞っていた。これを見て彼女は、日本人の面汚しだと感じたのだった。

 918事件(1931年9月18日の柳条湖事件に始まる日本の侵略戦争)後、日本の軍国主義者たちは機をうかがい、中国の華北を侵略・併呑しようともくろんでいた。中日間の戦争は、一触即発の危機にあった。不測の事態を避けるため、蔡は彼女に旗袍を数着買い与え、日本で生まれ育った華僑をよそおうように求めた。名前も鮑秀蘭と変えさせた。

 しかし、ある日、彼女は和服を着、草履をはいて、路地をぶらぶら歩いていてみた。すると道行く人たちが彼女を見て大声で「日本帝国主義打倒」「日本兵の奴らを駆逐しよう」と叫んだのだった。驚いた彼女は家に逃げ帰った。このことがあってからは、彼女は和服を旗袍に仕立て直したのだった。

伊藤の自伝『悲しみの海を越えて』

 1937年、日本軍国主義者は全面的な中国侵略戦争を開始した。伊藤は夫や他の技術者たちとともに、まず武漢に逃れ、さらに重慶に撤退した。最初のうちは彼女の気持ちは矛盾したものだった。例えば周囲の中国人が、日本の飛行機が高射砲で撃ち落されるのを見て拍手喝采しているとき、彼女は操縦士の運命を気遣う気持ちが知らずにわきおこってくるのを抑えることはできなかった。操縦士は自分の弟でないとは言い切れない、と心の中で想ったのだった。

 しかし間もなく、こうした矛盾した感情は、日本軍国主義者に対する憎しみにかわった。1945年に日本が降伏したあと、彼女は夫に従って鞍山製鉄所(遼寧省鞍山市)に行った。中国の東北部が解放されると、彼女は鞍山製鉄所の図書館で資料係の仕事につき、だんだんと中国に対する認識を深めていった。このときから彼女は、中国語を日本語に翻訳する仕事を始めた。

 ほどなく彼女は、民主新聞社を通じて、日本で戦後出版された日本文学の作品を受けとった。1949年に新中国が成立した後、中国政府は、日本人民と、中国に侵略戦争を発動した日本軍国主義者とを同一視することはできないし、日本人民も中国人民と同じように戦争の被害者であると、中国人民を教育した。

 伊藤は、中国人民、とくに長い間、日本人の統治下で悲惨な迫害を受けてきた中国・東北の人民が日本人を「日本兵の奴ら」として仇敵のように見るのは理由のあることだ、と思った。彼女は、すべての日本人が、彼女を含めて、中国人に対して取り返しのつかない罪を犯したと考えた。東北の人民に、日本軍国主義者と日本人民を区別させようとしても、実際はなかなか難しい。

 しかし翻って考えてみると、一般の日本人もこの戦争でずいぶんひどい目にあったのだし、中国人がこの点を少し理解してくれれば日本人に対する中国人の怒りがおさまり、日中友好の基礎をつくることができると彼女は思った。

 そこで彼女は、日本で戦後出版された日本の小説を中国人に紹介しようと決めた。彼女が最初に翻訳したのは、タカクラ テルの小説『豚の歌』だった。彼女にとっては、中国語を日本語に訳すのはほとんど苦労はなかったが、日本語を中国語に訳すのは多くの困難があった。幸い、長女の桂容が高校生になっていて、母と同様に文学が好きだったので、中国語を直す作業を助けてくれた。こうして約された小説は『人民文学』に発表され、多くの読者から手紙が寄せられた。

 彼女は自分の「鮑秀蘭」という名前があまりにも俗っぽいと感じた。そこでのちに、ペンネームを「蕭蕭」と改めた。これは中国の古詩の「風蕭蕭として易水寒し」から取ったもので、彼女の祖国が中国人民に対して犯した罪によって苦しみ悩む彼女の心境を表したものであった。

 続いて伊藤は、上海文化生活出版社からの依頼で、タカクラ テルの長編小説『ハコネ用水』と徳永直の『静かなる山々』第一部を翻訳した。これらの本が出版されてから彼女は北京に招かれ、人民文学出版社の楼適夷・副社長、訳文社の陳氷夷・副編集長と会った。

 楼適夷・副社長は、筆者に、『静かなる山々』の訳の質を見るように言い、私は原文と訳文を一つ一つ照らし合わせて点検し、誤訳や訳の漏れをいくつか指摘した。すると思いもかけず、「蕭蕭」から一通の手紙が届き、感謝の言葉が綴られていたのだった。「蕭蕭」は、数十年、編集の仕事をしてきた私が会った最も謙虚で親しみの持てる翻訳者であった。楼適夷・副社長はただちに、『静かなる山々』の第二部を翻訳してほしいといい、陳氷夷・副編集長ももっと多くの短編を翻訳してほしいと言った。

 北京作家協会は案内する人を出して、伊藤を天安門に連れていって参観させた。天安門にのぼった彼女は、感慨無量だった。十数年前に初めて中国にきて、北京を通ったとき、天安門の屋根にはペンペン草が生え、柱の漆は剥げ落ちて、ぼろをまとった男が一人、城壁の下にうずくまっていたのをおぼえていた。いま天安門はすっかり修復されて真新しくなり、朱塗りの壁と黄色い瑠璃瓦が紺碧の空にくっきりと映え、それはとても美しいものだった。彼女は中国が元気はつらつとした国に変わったと実感した。

 再び鞍山製鉄所に帰ってから伊藤は、翻訳に精を出した。1955年には瀋陽市の作家協会の会員になった。夫は、彼女が日本人ではないかとずっと疑われていたので、鞍山製鉄所で重用されなかった。これを恨んだ夫は、その不満を妻にぶつけて晴らそうとし、ついに夫婦は仲たがいしてしまった。彼女は北京に行き、翻訳の仕事に従事し、日本文学の作品の翻訳に打ち込んだ。

 ほどなく伊藤は長女の桂容からの手紙を受けとった。それには、彼女が共産主義青年団への加入を申請したが、自分の母親が華僑なのか、それとも正真正銘の日本人なのかをはっきりさせたい、鞍山ではこのことについて諸説紛紛だからということが書かれていた。そしてこう書かれていた。

 「お母さん、私はあなたが日本人であっても、決して嫌だとも、恥ずかしいとも思いません。なぜなら、お母さんはずっと中国人と苦楽をともにし、中国人といっしょに解放され、いま新中国の建設のために尽くしている中国人民の友人だからです」

 伊藤の目に涙が溢れた。子どもたちの前途のために、北京市の公安局に、自分の本当の身分を自ら進んで詳しく話したのだった。そのあと、彼女は夫の蔡とも離婚した。子どもたちは進学したり就職したりして、次々に北京に来て住んだ。

 ある日、日本の雑誌『婦人倶楽部』の増田という記者が伊藤を取材し、その文章が雑誌に掲載された。これがきっかけになって、長年音信が途絶え、ずっと以前に彼女が戦火の中で死んだと思っていた四人の兄弟姉妹と連絡がついた。1961年の晩秋、彼女は26年ぶりに日本に帰り、肉親と再会を果たしたのだった。

 日本に帰ってから伊藤は、前後してアジア・アフリカ語学院、中国研究所中国語研修学校、日中学院で中国語を教えるとともに、中国の長編小説『金色の山々』『赤軍の娘』『高玉宝』や多くの短編小説を翻訳した。また、『朝日新聞』やその他の新聞・雑誌に中国に関する報道や評論を発表し、日中友好活動に尽くした。

 人は、老境に入れば、葉が落ちて根に帰るように故郷に帰りたいと思うものだ。伊藤克は日本人ではあるが、彼女の心は中国から離れたことがない。1980年、中国政府は、彼女が中国で晩年を過ごすことを許可した。それから彼女は、中国語を日本語に翻訳する仕事に従事すると同時に、忙しい時間を割いて、北京師範大学と北京外国語学院分院で教鞭をとった。中日友好病院の医者となった長女といっしょに暮らした。

 伊藤は、一生涯、日中友好関係の促進に力を尽くした。1978年8月、『日中平和友好条約』が締結される前夜、彼女はこれを喜んで『毎日新聞』紙上に談話を発表し、こう述べた。

 「日本と中国はどんなことがあっても仲良くしなければ――。条約が結ばれたあとも、一人一人の心に日中友好の考えを植えつけていくのが、中国とゆかりの深い私たちの役目です」

 伊藤は、強い女性であった。日中関係が不幸な状態にあった時期には、彼女の人生の道路もでこぼこ道であった。中国では、山西軍閥の閻錫山の監獄に入れられたこともあり、幼い長男が暴力団に誘拐されたこともあった。日本に帰ったあとも、彼女は中国にかわって正しい主張を展開し、暴徒にひどく殴られて、もう少しで生命を落としそうになったこともある。

 しかし伊藤は、楽観主義の精神と高度の使命感に燃えていた。1961年に日本に帰ったあと、彼女は日本人民に、自分が見聞した社会主義の中国を宣伝した。1980年に中国に帰ったあとも、彼女は引き続き中日の友好事業に身を投じたいと思った。

 1982年12月31日、私は伊藤の住まいを訪ねて彼女に会った。彼女は出版されたばかりの『悲しみの海を越えて』に署名して私に贈ってくれた。この日に彼女といっしょに写した写真が、いっしょに写した唯一の写真となってしまうとは、考えもしなかった。

 1985年6月、私は日本の国際交流基金の研究員として東京に赴き、東洋大学で日本の近現代文学を研究した。日本滞在中に、私は、伊藤の親友である京劇研究家、吉田登志子さんから至れり尽せりのお世話を受けた。「帰国したら真っ先に、伊藤さんをたずねます」と私は吉田さんに言っていたのだが、帰国一カ月前に家人からきた手紙で、伊藤の訃報を聞いた。心から中国を愛したこの日本の女性は、この年の5月に、病気のため北京でこの世を去っていたのだった。

 中日国交正常化30周年を祝うに際して、私たちは、70年の生涯をかけ、終始、中日両国を結ぶ懸け橋となってきた傑出した女性――伊藤克を、永遠に忘れることはないだろう。(2002年7月号より)