陝西省・西安 城壁とともに生きる街
               写真・郭 実 文・坪井信人

 

 自然侵食、人為的破壊、修復、そしてまた侵食、破壊……。西安の城壁は、約600年の歴史の中で、度重なる試練を乗り越えてきた。

 「取り壊してしまえ!」

 約20年ほど前には、そんな声まであった。いま、市民が誇りとし、西安のシンボルである城壁の歴史と、城壁とともに暮らす人々の生活を紹介する。

 

鐘楼の周りには、現代と過去が同居している



 世界を見回しても、西安のものほど完全な形で保存・修復されてきた城壁はない。市民はいま、城壁や城壁をぐるっと取り囲む環城公園と、切っても切れない生活をしている。

 朝、入場無料の環城公園を歩くと、秦腔(陝西地方の地方劇)、豫劇(河南地方の地方劇)、京劇などを歌う人、社交ダンスに興じる人、鳥の鳴きくらべをする人、太極拳をする人、アスレチック器具でトレーニングする人などと出会える。

 お年寄りが多いのは、時間がありあまっているからだ。テープレコーダーから流れる大音量の音楽に合わせて、思い思いに踊る4、50人の団体は、自然発生的に集まってきた人たち。姪と一緒に毎朝七時に和平門近くの公園に来る老紳士は、「友達が増えてうれしいよ」と笑う。

南門から城壁に登れば、レンタサイクルも楽しめる

 城壁に楽譜を立てかけ、バイオリンを弾いていたのは、女子高生の牛紅燕さん。2時間後には音楽大学の入学実技試験を受ける。近所迷惑になるアパートの一室では、自由に練習できず、母親とともにやってきた。

 緑豊かな公園は、市民にプライベートスペースを提供している。

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 しかし城壁と市民は、ずっと快適に共存してきたわけではない。いまからわずか20年前には、長年の自然侵食と人為的破壊によって、無残な姿に成り果てていた。

城壁の全長は13.7キロ、城壁内には300万以上の人が生活している
「シュン」(土笛)は、お土産として人気。約4000年前の半坡文化時代に庶民が使っていた楽器

 西安の城壁は、隋・唐代に造られた土塁(城壁)をもとに、1370年(明代)から8年かけて築かれた。現在の城壁は、1983年からの修復を含む三回の大修復と、数え切れない小規模な修復がほどこされた。中心線の全長は約13・7キロ、高さは約12メートル、平均幅は約130メートルある。

城壁の上にはのんびりとした時間が流れる
城外と城内を結ぶのは14の門

 20世紀は、城壁にとって受難の世紀だった。1924〜27年(北伐戦争期)、西安一帯も戦争の舞台となり、城壁には砲弾が打ち込まれ、あちこちにひび割れや城壁の崩壊が現れた。いまでも、西安駅に近い城壁の北東部には多くの砲弾痕が残り、城壁を囲む環城道路からもはっきりと目にすることができる。抗日戦争の際には、直接的な戦禍はなかったものの、城壁に千以上の防空壕を掘り、空爆などに備えた。「文化大革命」の時代には、管理機関がなく、城壁のレンガを勝手に持ち帰り、建材に当てた人もいた。その他、お堀の排水機能も働かなくなり、住民の生活に不便をもたらした……。

 1980年代初頭、「修復しなければ崩壊する」という状態に、「いっそのこと取り壊すべきだ」との意見もあった。城壁は、市民にとって誇れるものではなく、西安市は、「歴史遺産を保護しながら発展するか」「盲目的な経済発展を目指すか」の岐路にあった。

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音楽大学受験を控えた牛紅燕さんと、娘を見守る母親

 そんな時代だったが、折りしも中国では、全国的に歴史遺産の価値を見直す風潮が高まりつつあり、城壁の修復・保存の追い風になった。しかも歴史学者たちは、城壁修復に反対する一部市民の声に圧力を感じながらも、一貫して城壁保存の立場をとっていた。

城壁の見える西北大学で学ぶ侯さん(右)と曽さん
環城公園で汗を流す人も少なくない

 城壁修復の最大の障害は、深刻な予算不足だった。

 そこで、馬文瑞・陝西省党委員会第一書記(当時)は、中央政府に城壁修復と、その関連事業の重要性を説き、支援を要請する手紙を送った。その結果、中央政府が一括して捻出した補助金としては最高額である5600万元の援助を取り付け、プロジェクトスタートのきっかけを作った。

 しかし多くの市民は、「城壁を守ったのは鉄市長」と信じて疑わない。「鉄市長」とは、80年代初頭に西安市長を務め、市民の先頭に立ってプロジェクトを引っぱった張鉄民のことだ。実際は、国の予算援助も、「鉄市長」の力も、推進力になったに過ぎず、一番大きな力になったのは市民だったが、今でも彼の名前だけが突出しているのは、病死後、その業績を称えて制作された記録ドラマ『鉄市長』の影響が大きい。

小鳥の声を聞きながら、時間をつぶす
環城公園を南門から東側に歩くと、唐で諸学を学んだ吉備真備の留学を記念する石碑がある

 城壁修復に参加した孫さんは、「学生も社会人も、誰もがレンガを運んだ。だから思い入れが強いんだ」と、誇らしげに語る。市民は、「人民城市人民建」(人民の都市は、人民が造る)というスローガンのもと、主に週末の時間を割いて、同プロジェクトに参加した。これは「義務労働」と呼ばれ、無料奉仕したこの活動こそが、市民の街や城壁への愛着を深めた。

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鼓楼から鼓鐘楼公園と鐘楼を望む

 城内中心部の鼓楼(1380年建立)と鐘楼(1384年建立)に挟まれた鐘鼓楼広場も、もともと平屋が軒を連ねる老朽化した住宅区だった。区画整理にともない、1996年には公園と地下三階建てのショッピングセンターが完成、いまでは市民の憩いの場になっている。鐘楼の南東側にはマクドナルドの入った百貨店もあり、城壁とともに、現代と過去が同居した空間を作り出している。

 何年か前、日本の京都では、駅ビル建設の是非をめぐり、大きな論争があった。西安も、歴史遺産保護と都市開発のはざ間で揺れながら、開発を進めてきた。主な政策として、鐘楼(高さ約40メートル)周辺には、その最高点より高い建物の建設は禁止されている。そのため西安は、市中心部の建物は比較的低く、城外に高層ビルが立ち並ぶ都市になった。

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観光客も凧揚げを楽しむ

 「城壁は子どもたちの遊び場だった」

 玉祥門の近くに住んで30年以上になる老夫婦は、街の変化を見てきた生き証人だ。彼らによると、つい3年ほど前まで、近所の子どもたちは、こっそり城壁によじ登って、上で夕涼みをしていた。10メートル以上の高さがある城壁を一番で登りきった子どもは、仲間うちでヒーローになれただろう。今では管理が行き届き、「ガキ大将」が活躍できる場所はない。

鐘楼の鐘。明の初めに景竜観にあったものを移してきた

 一方で、城壁には、1984年の対外開放以来、すでに千三百万人以上の観光客が登った。92年には天皇陛下、98年にはクリントン前米大統領のような要人も足を踏み入れ、観光資源として重要な役割を果たしている。国、省、市などによる城壁関連事業への投資は、2000年末までに、延べ4億元に上っている。

 城壁の修復と同時にはじまった区画整理にともない、83年に城内の東北部から郊外に引っ越した劉さんは、「思い出の詰まった場所がなくなってしまった」と少し悲しい表情を見せた。ただ、「トイレもシャワーもない平屋からアパートに移ったことで、生活はずっと便利になった」と、城壁修復のための移住を前向きに受け入れている。

 西安郊外出身で、西北大学の大学院に通う侯さんは、修復当時のことをまったく知らない。しかし彼女にとっても、いまや城壁のない生活は考えられない。「陝西省の人間にとって、城壁は家のようなもの。文化水準の高い場所に生まれ、生活できることに誇りを感じる」

鼓楼の太鼓。観光用に作り直したもの

 西安には、北京、上海に次いで三番目に多い36の大学があり、科学技術分野の人材密度も全国一を誇る。古都のイメージが強いが、いまなお優秀な人材を輩出し続ける「先進地」と言える。

 4月上旬の西安滞在中、偶然手にとった当地の新聞には、「市場経済の世で、なぜ鐘楼に広告を掲げてはいけないのか」、「北京の故宮には、コーヒーショップが進出した。なぜ西安だけが伝統、伝統と言わなければならないのか」といった議論が掲載されていた。

 歴史遺産の保護と経済発展。この二つをバランス良く進めるための議論は、これからも続く。(2002年8月号より)