往事長已矣 故人永難忘
――北京で再会した中日の「戦友」たち


                      黄秀芳

 中国の抗日戦争期、中国で活動を広げていたある特殊な反戦組織――在華日本人反戦同盟。彼らはかつて中国を侵略した日本軍兵士であったが、後に侵略戦争に反対し、平和と日中友好を促進しようとする「反戦運動家」に生まれ変わった。彼らと中国の人々は、抗日戦争や解放戦争、新中国建設の過程の中で、ともに困難を乗り越えたばかりか、中には自らの命を犠牲にする者まであった。中日国交正常化30周年を記念する今年、私たち中国人は彼らに対して、心からの感謝の意を表したいと思う。

50余年後に再会

 5月9日午後四時、元在華日本人反戦同盟のメンバーによる友好訪中団(一行7人)は、北京の万寿賓館に到着し、1930〜40年代に苦楽をともにした中国の戦友たちと再会した。

5月9日、北京万寿賓館で、元在華日本人反戦同盟メンバー友好訪中団と中国側の記念撮影。安洋波さん(前列左端)と、しっかりと腕を組む日向スマさん

 戦友との再会は、ことのほか感動的であった。76歳の日向スマ(旧姓・前岡)さんは、68歳の安洋波(旧名・安秀雲)さんの手をとり、しばらく放そうとはしなかった。なぜなら彼女たち2人は、48年に離別して以来、50余年ぶりの再会だったからだ。その後、互いに名前が変わり、年を経たので、最初は気付かずよそよそしかったが、日向さんが身の上話をはじめると、安さんはようやく彼女がかつて同じ病院に勤めていた前岡さんだということがわかった。その時、安さんは13歳。孤児であった。安さんは言う。「看護の知識はすべて前岡さんたちから学んだものです」

 この時、隣に座っていた元中国空軍兵站部幹部の楊大倫さんは、感動をこらえきれない様子だった。彼も思い出したのだ。目の前にいる日向さんが当時、彼を看護してくれた前岡さんであったと!

 それは47年3月14日のことだった。楊さんは戦争中に負傷し、彼女たちが勤めていた遼寧省西部の病院「遼西第一軍分区衛生処」に運ばれた。当時は、あらゆる病院が農家を借りたものだったので、満足のいく環境ではなかった。病床は農家のオンドル(台座式の床下暖房設備)を利用した。

 「そんな状況でしたが、彼女たちはとても真面目な仕事ぶりでした。負傷者に定期的に薬を与え、病状を聞き、私たちのこともよく世話してくれました」「当時は彼女たち看護婦と、ともに笑い、ともに歌をうたったものです」。楊さんは、当時の日本女性たちが彼のために書き写してくれた歌詞カードを、今も大事に持っているという。

 右腕を失った楊さんを見て、日向さんも思い出した。「楊さんが負傷した時、心配したのは傷口から感染しやすい破傷風でした。それで特に消毒に気をつかいました。当時は毎日、亡くなる方がいました。が、あなたは(奇跡的にも)回復されたので、みな本当にうれしかったのですよ」

 50余年を経た今でも美しい日向さんは、また流暢な中国語を話すことができた。48年に安さんと別れた後も、部隊の南下に伴った。49年の新中国成立後は、「上海第四人民医院」に勤務。その後、58年にようやく帰国したのである。

 「当時は、マッチさえもない日々でした」と日向さんは笑う。安さんは、「彼女たちとは苦楽をともにしました。あのころは、スイカの皮だって捨てられませんでした。皮は洗ってから切り、塩を混ぜて、それから料理をして食べたのです」。思い出を語り出すと言葉に詰まってしまう安さんは、当時の心情を次の文章に表してくれた。

 「思い出すと心が痛みます。当時、中日両国の人々はみな辛酸を嘗めました。私はまだ13歳の子どもでしたが、日本の医療関係者と友達になりました。最前線で傷ついた兵士たちを、ともに助けたのです。戦地の病院で重傷患者らを手当てしました。紅十字(赤十字)の御旗のもとで人道主義を貫き、国や人種、言葉の違いを乗り越えて、ともに暮らし、ともに戦ったのです。あの異常ともいえる苦しい時代に、人間の最も神聖な感情で結ばれたのです。今、私たちは晩年を迎え、人生最大の贈り物――平和と友情の貴さをかみしめています」

尊敬に値する理由

 再会の場面では、同席者がみな感涙にむせんだ。とりわけその代表と言えるのが、前田哲夫さんと小林陽吉さんだ。二人の父は中国で反戦組織に参加していたが、二人とも父と中国側のそうした心情が以前は少しも理解できなかったという。

 前田さんの父・光繁さんは、最初の反戦同盟組織(当時・覚醒同盟)の創設者の一人であった。一方、小林さんの父である清さんは、組織の中で唯一中国にとどまり、当時の歴史的記録『在華日本人反戦組織史話』を残した人だった。

 前田さんによれば、父はもう老いて動けなくなったが、次の世代に日中友好の仕事を継いでもらいたいと考えていた。それで哲夫さんに、「休暇がとれるかどうかなど問題ではない。いつでも(中国に)来なさい」と諭したという。

1945年、在華日本人解放連盟・膠東支部の山東省莱陽での記念撮影。前列左から2番目が小林清さん

 前田さんの父・光繁さんは当時、満鉄(南満州鉄道株式会社)の後方勤務をしており、その後中国で捕虜になった。38年のある冬の夜、八路軍が光繁さんに銃口を向けた時、彼はもう一巻の終わりだと思った。だが、意外にもそうはならなかった。八路軍は「我々は捕虜を優遇します」と言う。

 護送中は、沿道の農民たちが「やつらを殺せ!」と罵声を浴びせた。しかし、八路軍は捕虜を殺さなかった。日がたつにつれて、光繁さんは気が付いた。「この戦争は、日本に伝わるようなものとは違う」。心中に疑問が生じたのであった。

 一方の小林清さんは、捕虜になった後も激しく抵抗したことがある。清さんは召集されて38年に軍隊入りした。39年、戦闘中に負傷し、中国で捕虜となった。八路軍は捕虜の優遇政策を繰り返し話して聞かせたが、彼は聞く耳をもたなかった。そして思った。「どんなことがあっても、決して降伏しないぞ。殺すなら殺せ。さもなければ、逃げるまでだ」

 ある夜間移動の時、彼は逃げ出した。が、日が昇るとすぐにつかまり、連れ戻された。脱走は失敗に終わり、彼は今度は八路軍の指導幹部を殺そうと考えた。だが、依然として八路軍の世話を受け続けた。そして次第に「八路軍は日本軍とまったく異なる新しい部隊だ」という思いが、確信となっていった。「日本軍は中国軍の捕虜ばかりか、なんの罪のない人々までも殺した。しかし八路軍は、我々日本の捕虜に対してなんと寛大で慈悲深いことか……」

 実は、彼らのこうした心境の変化には、背景があった。前述した『在華日本人反戦組織史話』によると、日本帝国主義は長年にわたり、民族の自尊心を鼓舞した。大和民族は「神の子」であり、「神州不滅」「皇軍は百戦百勝」と標榜して、日本兵のその傲慢な自尊心をつくり上げた。

 また学校をはじめ、書籍や新聞、雑誌などの媒体を通して、「滅私奉公」「一億玉砕」などの武士道精神を教育し、天皇に忠誠を尽くし、天皇に命を捧げることを、人々の意識の中にすりこんだ。さらに「中華民族を下賎で野蛮、劣等な民族であるとして、日本軍兵士の中国人蔑視観をつくり上げた」のである。八路軍も「極悪非道、残忍無比の野蛮人」と、その名誉を汚された。

 誤った教育から、こんな悲劇も生まれた。八路軍の医院で看護されたある日本軍の捕虜が、すりこまれた通り「こいつらは私の頭を割り、生まれ変われないようにするのだ」と恐れ、あろうことか軍医が目を放したすきに、軍医を小刀で傷つけてしまったのである。

 実際、抗日戦争の初期から、共産党には明確な捕虜政策があった。39年7月に発表された『中央軍事委員会 敵・偽政権の捕虜に対する規律指示』の中に規定されている。「捕虜の殺害と、その財産没収を禁ずる」「いかなる人格も習慣も侮辱してはならない」「負傷者の銃殺を禁ずる」「戦死した敵軍の士官・兵士は、できるだけ埋葬し碑を立てる」「(八路軍)参加を希望しない者は、釈放する」などだ。

 前田光繁さんは捕虜になってわずか三カ月後に、それまでの思想がガラリと変わったという。39年の春節(旧正月)、八路軍総司令部と野戦軍総政治部は、山西省東南部で新年の祝賀会を開いた。光繁(当時の仮名・杉本一夫)さん、小林武夫さん、岡田義雄さんの日本人3人はその席上、八路軍への参加を志願し、朱徳・総司令官の絶大なる歓迎を受けた。これが、史上初めて八路軍に参加した日本兵だった。光繁さんの息子の哲夫さんは言う。「当時の日本人は、誰も日本が負けるとは思っていなかった。そういう状況下にあっては、父の八路軍参加は尊敬するに値します」

 彼ら「日本八路軍」は、けっして銃を持たず、日本軍との戦いにも加わらなかった。その目的は、日本人として八路軍の捕虜政策を宣伝し、さらに多くの日本兵を覚醒することにあった。八路軍の指導のもと、目覚めた人たちによる反戦団体の発足が決まった。39年11月7日、杉本さんをはじめとする日本人七人は、山西省遼県(現在の同省左権県)麻田鎮の八路軍野戦総部で、在華日本人による「覚醒連盟」成立大会を開いた。この時以来、戦場にいた日本人の多くが、覚醒連盟に加わっていくのである。

 共産党の捕虜政策が日本軍兵士の中に浸透し、日本軍の作戦が瓦解するにつれて、彼らの中に「反戦」の思いが芽生えた。投降事件も次々と起こり、「八路軍の中の日本人は、40年に自主投降した者が7%、42年には同38%、43年には同48%を占めた」(『反戦兵士物語』)という。

彼らの上官になれたか?

 小林清さんの著書の中に、次のような記述がある。

 44年3月4日、新四軍(国共合作による「国民革命軍新編第四軍」)の車橋戦役において、前後して日本軍の山本一三・砲兵中尉をはじめとする48人が捕虜になった。彼らは新四軍に加わった後、新四軍と反戦同盟にたいへん世話になった。感銘を受けた彼らは、四日目に会議を開き、中尉であった山本さんが全体に明らかにした。「(日本軍には)もう戻りたくない。全員で新四軍にとどまることを希望する」と。

 伝奇的な話であるのは、同書に描かれた山本さんは、意外なことに前述した日向さんの夫、日向勝さんだった。彼は今回も北京を訪れた。しかも訪中は二百回目になるという。

 81歳の日向さんは、往事をこう述懐した。「日本軍の捕虜48人は、うち30人が反戦同盟に参加した。それは一大センセーションを巻き起こし、当時の『解放日報』『新華日報』などの新聞がいっせいに一面トップで報じた。それで山本一三さんのことは、八路軍の古い友人たちはみな知っているのです」

 日向さんはその後、砲兵教官として新四軍にとどまった。淮海戦役、渡江戦役などの大戦に参加し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任した。だが、上官にはなったが、心は落ち着かなかったという。「私は新四軍で、本当に彼らの上官になれたのだろうか?」と。

小林陽吉さん(左端)と前田哲夫さん(右端)が父の偉業を継ぐ。左2番目から張香山さん、小林寛澄さん、日向勝さん

 実際、彼も教育された側だった。上海に攻め入った時、日向さんは前線指揮官の一人だった。砲弾が絶えず彼らの陣地に飛来した。ある時、敵のしかけた爆弾を目にした中国の護衛兵が飛んできて、日向さんに自ら覆いかぶさった。護衛兵は言った。「たとえ私が死んでも、あなたは死んではならない。あなたは指揮官なのですから」

 日向さんは言う。「私はとても感動しました。これはただ日中両国人民の友情だけでなく、さらにはプロレタリア階級における友情なのだと思いました。それまでの心配はすっかりかき消されました」

 日向さんのように戦時中、中国人と生死をともにした人は少なくない。元関東軍の航空通信技師であった土利川正一さんは、かつて周恩来総理や趙安博氏らを「(私の)人生になくてはならない指導者である」と語った。また、小林陽吉さんの父・清さんは85年、記者の取材を受けた時にこう答えている。「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」。尊敬すべきなのは、これら「覚醒した」日本人たちが反戦史上、感激と涙の史実を残してくれたことである。

 たとえば小林清さんは、42年に陝西省延安の日本工農学校から山東省膠東県に戻った際に、在華日本人反戦同盟に参加した。日本敗戦後は八路軍、新四軍に協力し、日本軍兵士を受け入れる大きな任務を果たした。ある時、山東省青島の囲和、即墨などの地に駐屯していた日本軍200人あまりが、(情勢悪化のため)国民党への投降を企てたが、八路軍に阻止された。日本軍兵士たちは八路軍への投降を拒んでいたが、小林さんは単身、日本軍の中に入って彼らを説得。兵士たちは全員が八路軍に投降した。それは国民党を震撼させた。国民党陸軍総司令部にまで影響が及び、同司令部から再発防止の厳命が下されたのである。その通達は現在、江蘇省南京市の南京オオ案館(資料館)に保存されている。

 往時すでに長くも、故人、永に忘れ難し――。中日国交正常化30周年の記念すべき今年、平和と友好の大切さが再確認されている。

 今回の交流会を主宰された劉徳有・中国国際交流協会副会長(元文化部副部長)は、日本からの客人に対して何度も感謝の意を表した。その晩の宴席では、張香山・元中国共産党中央対外連絡部部長が、改めて中国側を代表して感謝の意を述べられた。「水を飲む時に、井戸を掘った人を忘れない」。これは中日国交正常化の際、周恩来総理が語った言葉である。抗日戦争で中国が困難をきわめた時期に、中国人とともに日本の軍国主義者に反対し、その後、新中国建設や中日友好事業に貢献した人たち――。私たちはその偉業を永遠に記憶し、歴史の一ページに刻み込むことだろう。 (2002年8月号より)