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ラボ国際交流センター訪中団が月壇中学を訪問(写真・馮進) |
日本語の養成学校として知られる中・高一貫校の「北京市月壇中学」が、今年3月24日から28日まで、日本の財団法人ラボ国際交流センター(本部・東京)の第17次訪中団(1行46人)を受け入れた。同センターは1966年、民間の教育機関として設立、73年には外務省認可の財団法人となった教育機関の一つで、子どもたちはそこで世界名著や歌を通して、異国の文化や言葉を学んでいる。またホームステイの形式で、毎年1200人以上をアメリカ、カナダ、韓国、中国などの国へ派遣している。世界の人々の暮らしや文化を、子どもたちが自ら体験するのである。
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体育の時間に「友好サッカー」で汗を流す |
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万里の長城に登る |
同センターの中国との交流は86年にスタート。交流先には月壇中学が選ばれた。以来、交流は今年で第17回を数え、訪中者数はのべ800人以上に上っている。
訪中団を迎えるにあたり、月壇中学は万全の準備を整えた。ホームステイ先を募集した時も、生徒たちは喜んで名乗りをあげた。李玉文校長は、「応募者は必要な数の約2倍にふくれ上がった。毎年こうなんですよ」と語る。
3月24日午前、盛大な拍手と「こんにちは」のあいさつの中、訪中団メンバーたちが月壇中学を訪れた。その後、彼らは中国の生徒一人ひとりに付き添われ、それぞれの家庭へと分かれていった。北京での四日間のホームステイがスタートしたのである。「中国の子どもと友達になれるだろうか?
中国のお父さん、お母さんと打ち解けあえるだろうか?」というのが、彼らの一番の関心事だった。
しかし、訪中団団長の青木克浩さんは言う。「これまでに訪中した団員に、中国を嫌いになるか二度と来たくないと言う人は、一人もいません。その反対に、中国での生活体験が彼らのその後の人生に大きな影響を与えています」。大学で中国関係の分野を専攻する人、中国に留学する人、日中合弁企業に就職する人、中国で日本語教師になる人などが、そこからは生まれている。一方の月壇中学でも「卒業生の90%以上が日本関係の仕事を選び、働いている」(李校長)という。
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北京の天安門広場を初めて訪れたメンバーたち |
中日国交正常化30周年の節目にあたる今年、両国では幅広い民間交流が進められ、次世代のための友好の種が着実に蒔かれている。
訪中団を見送る日、王宏鵬くんという男子生徒が言った。「兄弟は行ってしまうが、僕たちの友情は永遠です」と。短い期間の交流だったが、彼らにとっては忘れられない思い出となったようだ。その間、彼らが何を感じ、何を思ったのだろう――。ここに両国の子どもたちの作文を紹介したい。
(要旨は変えずに一部修正しています)
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吉田誠くん(右)と孫巍くん |
まだ小学生だった時、僕は周りの人から日本人のいろいろな評価を聞いていた。「日本の子どもは自己処理能力や素質がある」「日本人は中国人に対して、友好的ではない」などだ。いずれにしても、うわさ話の類である。今回の交流でようやく、(日本人を)よく見ることができた。
ある日本の友人を迎えた時、二人はすぐに打ち解けて話し合ったり、笑ったりした。しかし彼は車に乗るとすぐに、目を拭い始めた。ホームシックにかかったのだろう。僕は彼をなぐさめ、励ました。そして北京ダックを食べに行き、動物園でパンダを見た。彼の顔にもようやく笑みが戻ってきた。しかし夜になって僕が宿題を始めると、彼はまた泣き出した。それ以降の数日間、僕は学校にいる間に宿題を終え、放課後になると、すぐに彼の面倒を見た。一切の世話をしたので、とても大変だった。
しかし彼の自己処理能力は、やはり学ぶに値した。彼は、帰宅するとすぐに自分のスーツケースを開け、中身を整理した。この数日間に着る衣服を取り出してカバンの中に入れ、持ち歩くカメラや財布をウエストポーチの中に入れた。毎日、帰宅すると着替えた上着やズボンをきちんとたたみ、スーツケースの中にしまった。きちんと整理していたので、僕の両親はことあるごとに彼を誉めた。
ある晩、僕たちは散歩に出かけた。一人の男性が通り過ぎた時、タバコの吸いがらをポイと捨てた。僕は見過ごしたが、彼はかけ寄ると、その燃えさしの吸いがらを靴の裏で踏み消した。僕はびっくりして、そして恥ずかしくなった。北京はオリンピック招致を成功させたにもかかわらず、僕たちは(それに見合った)良い行いをしていないのではないか? アメリカの記者がかつて称賛したように、「恐るべき大和民族」に学ぶ点はまだ多いのではないか?
四日間の交流は楽しかったし、相互理解が深まった。僕たちはこうした交流を深めることで中日友好の懸け橋、いや、懸け橋の上の細い線になりたいと願っている。
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岩永健太郎くん(左)と潘イク辰くん |
最初、北京のホテルについたらすぐ友達ができて、仲良く会話をして、ホスト(ホームステイ先のパートナー)ともすぐ話ができるだろうと思っていたが、きんちょうして二日間くらいまともな話ができなかった。本当に自分がしたいことも言えず、お客様あつかいを受けているようだった。
でも、三日目の放課後に、ホストと自分と月壇中学の生徒たちとサッカーをした。するとみんなから「ナイス」とか、「上手だね」とか、「すごい」と言われ、とてもうれしかった。それにだいぶ気が楽になり、帰りのタクシーの中では、ホストとずっと話していた。北京最後の日の「お別れ会」の時、ホストのお父さんがバックのこわれたカギを直してもらい、もって来てくれたのには、とても感動した。
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阪納芳宣くん(右)と宋磊くん |
ホームステイで受け入れた相手は、愛知県名古屋市から来た阪納芳宣くんだった。とても朗らかな人で、開口一番「僕は少し緊張しています」と言って硬くなっていたが、僕たちはすぐに打ち解けた。何でも話せる友達になったのだ。
彼の夢はコックになることだった。それはお父さんの職業でもある。それで中国では毎日、好奇心旺盛に中国料理の作り方を学んだ。彼は言った。「卒業後は料理の専門学校に入りたいんだ」。それは今の中国人にとっては、あまり人気の職業ではない。しかし、多くの中国人が抱く「大人物や大科学者になる夢」に比べると現実的だし、実際にはコックになる人の方がそれよりは多いだろう。こうした堅実な態度と精神は、おそらく僕たちには欠けている部分だ。遠くかけ離れた理想は結局、妄想でしかないのだ。
阪納くんの好奇心はそれを象徴していた。ある日、夕飯に中国式しゃぶしゃぶを食べることになった。彼はそれを聞くなり質問した。「それは日本から中国に伝わったものですか?」。僕はすかさず、しゃぶしゃぶは中国から日本に伝わったものだと教えた。意外にも、彼は僕の見解をとてもユニークだと思ったようだ。そこには、耳にするような日本人の民族主義意識はなかった。
またある時、不意に抗日戦争について話が及んだ。しかし何の論争にもならなかった。彼は誠実な態度で僕の話す歴史の事実を受け入れてくれ、「日本人の多くは、平和を望んでいますよ」と言った。そして歴史教科書の改ざんに反対するため、彼の先生も史実に基づいた教育をしている、と教えてくれたのだった。
自信にあふれカッコイイ中国の人たち 菊川瑠美さん(高校2年)
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菊川瑠美さん(左端)と戚暁旭さん(中央) |
北京のホストの暁旭さんは、日本語も英語もペラペラだった。イギリス、オーストラリア、タイ、シンガポールなど、いろんな国に行ったことがあって、ホームステイの経験もある。驚いたことにスカイダイビングもやったことがあった。チャレンジ精神旺盛なんだなあ。日本語は難しいとよく言われるから、暁旭さんにも聞いてみた。「うーん。楽しいですよ、おもしろい!」と笑顔で答えてくれた。
(彼女の)お母さんの車の中から見る、活気があって、いい意味でハチャメチャな中国の街。人も自転車もひかれそうで、見ているこっちはハラハラしてるのに、みんな堂々として前だけを見て進んでいる。とっても急いでいるのに、とげとげしさは感じられなかった。マイペースで気楽な、楽しい気分になるオーラが街にあふれていた。
月壇中学で、中学生クラスの日本語授業を参観した。先生は全部日本語でしゃべり、板書はあまりしなかった。生徒も日本語で答え、ノートはとっていなかった。教科書はもう全部暗記されていた! 当てられて答える時に間をつなぐ「うーんと」や、「えーっと」という言葉もごく普通に使っていた。自信にあふれ、先生も生徒も授業中とは思えないくらいの笑顔だった。
暁旭さんに、私が体験した授業の様子を伝えたら、彼女もやっぱり暗記しているという。しかもその数がすごい!「私のおばあさんは、私が7歳の時にこれを暗記させました」と、二ページくらいある漢文を見せてくれた。7歳でっ! 驚いた。そんな小さい時から一生懸命勉強をして、今でもそのやる気満々のパワーが衰えていない。すごいなあ、すごいなあ。将来は外交官になりたいと、キラキラした目で教えてくれた。友達同士の仲もすごくよくて、彼女はクラスで何番なんだよ、と誇らしげに友達を紹介してくれた。前向きで、明るくて、何でもおもしろい!
と感じている中国の人たちは、とにかくかっこよかった。
友情は距離で測るものではない 楊陽さん(中学2年生)
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楊陽さん(左端)の家でギョウザを作る浪崎さん(右から二番目) |
浪崎礼香さんと初めて会った時、型通りのあいさつの後で私たちは沈黙に陥ってしまった。互いに内向的だったし、とくに彼女は一言しか話さないような無口な女の子だった。
一日目の夜、彼女は泣き出した。「どうしたの?」と聞いても答えない。それで彼女に言った。「ここは浪崎さんの中国の家。私たちはみな、あなたの友達ですよ」。その後、彼女は中国語がわからないので寂しくなったんだと気づいた。それで、できるだけ彼女と(日本語で)話すようにしたが、それでもまだ心を開いたようには思えなかった。
行き詰まりは、二日目の夜に解決した。浪崎さんは、ピアノを弾くことが好きだとわかり、何曲か彼女に弾いてもらった。もともと私はピアノがあまり上手ではないが、彼女がとても嬉しそうに弾くのを見て、私も一曲披露した。最後に私たちはベートーベンの『歓喜の歌』を一緒に弾いた。彼女はようやく心から楽しそうに笑った。
その後は、ほとんど何でも話せるようになった。私たちは一緒にいても、少しも窮屈さを感じなかった。北京ダックを食べに行ったり、ギョウザを作ったり、日本語の歌を聞いたり、アニメーションを見たりした。母はまた中国ゴマの遊び方を彼女に教えた。浪崎さんの嬉しそうな笑い声がいつも聞こえていた。そんな時、私は心から喜んだ。
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月壇中学の生徒たちが日本の踊りを披露した |
別れの日の午前11時ごろ、彼女たちが乗った車を見送った。校門を出ていく彼女を見ると、私の目からは涙があふれた。その時、互いに一言も話さなかったが、相手がおそらく何を言いたいかがわかった。今後はなかなか会う機会がないだろう。しかし、私は信じている。友情は決して距離が引き裂くものではないと。私は早速、彼女あての手紙を書いた。私たちはみな、この友情を大切にすることだろう。
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浪崎礼香さん(左)と楊陽さん |
3月23日、観光気分でうきうきしながら、飛行機に乗りました。24日、ホストと対面して家にいったとき、わたしはとても不安でした。ホストは中学2年生だけど、あまり日本語を話せませんでした。ホストは辞書を引いて「お楽になさって下さい」という言葉を私に見せました。でもわたしはそのとき、楽にしている余裕なんてありませんでした。
わたしは北京であまり自分を出すことができず、わかる中国語もほとんど言わないままに、毎日をすごしました。
でもよかったことは、日本料理の肉じゃがを作ってあげて、(ホストが)おいしいという表情でたくさん食べてくれたことや、ホストと万里の長城にいっしょに登って、ちょっと近づけたことです。それと最後の日の夜、写真をとったり、言葉はわからないけれど、いっしょに笑えたことでした。
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西条周子さん(右)と郭カンさん |
名古屋から来た西条周子さんと四日間を過ごしました。彼女はまじめで、几帳面で、私を大いに啓発してくれたのです。
万里の長城へ行った日のこと。車中でキャンディーを食べた時、彼女はリュックサックから小さな黒いビニール袋を取り出して、その中に包み紙を捨てました。不思議に思った私が「外出時にはいつもゴミ袋を持つの?」と聞くと、彼女は「私だけでなく、日本人にはこういう習慣があります。みんなが勝手にゴミを捨てたら、街は汚れてしまうでしょう」と答えました。私は本当に感動しました。わずかの努力で、国の姿が変わる。小さなことが重要なのです。
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団長の青木克浩さん(右から三番目)と李玉文校長(右端)が記念品を相互交換した |
ある晩、彼女の部屋にはまだ明かりがついていて、そこからゴソゴソと音が漏れてきました。何かと思い、ノックをして入ってみると、ああ、彼女はスーツケースの中身を整理していたのです。水色のケースの中には、左側に衣服、右側に本やその他の小物がスッキリと収められていました。衣服はきれいにたたまれ、本やその他の小物もきちんとしまわれていました。「すごい!」。私は感服しました。自分の乱雑な部屋と
衣装ダンスを思い出し、「千差万別」とはこのことかと思い至りました。
これが、彼女の最も深い印象です。あるいは「彼女の」ではなく、彼女を始めとする「多くの日本人の」印象と言えるかもしれません。
「あっち向いてホイ」から共鳴 島田貴史くん(高校1年)
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島田貴史くん(左)と董偉楠くん |
僕のホストは特にそうだったのかもしれないけど、まず初めに感じたことは、中国の人の勤勉さだった。ホストの部屋には大きな本棚があり、日本の教科書や問題集や資料があった。そして毎日、それらを使って勉強し、またわからないことがあれば、僕に質問してきた。その積極性が中国でどれくらい一般的なものかは知らないが、少なくとも僕にはとうてい真似のできないことだった。
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子どもたちは別れを惜しみ、あえて「さようなら」とは言わなかった |
ホストの家で不意に会話が途切れたことがあった。僕はあせって何かをしようと思い、「あっち向いてホイ」などの日本の簡単な遊びを教えた。「あっち向いてホイ」(で遊ぶこと)自体に満足しているわけではないけど、そういったお互いの「呼びかけ」はすごく大事だと思った。僕は、それでホストと本当に打ち解けることができた。それに何より友情や親近感という、僕がホストとの間に求めていたものは、お互いに共鳴し合って初めて成り立つものだと思った。
それを今回のホームステイで体験を通して実感し、日本のほかの仲間たちにも知ってもらいたいと思った。
(2002年8月号より)
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