1985年に、私邸の事務所で筆者と会った田中角栄

　「田中角栄」という名前を知らない中国人は少ない。田中（以下、敬称は略す）は30年前、日本の首相として中国の周恩来総理とともに『中日共同声明』に調印したからだ。これにより中日両国は国交を回復し、50数年の長きにわたった敵対の歴史を終わらせたのである。これが、田中の首相就任後わずか2カ月余りで行われたことは、彼の理念と無関係ではない。

　田中の理念は非常に簡潔、明瞭であり、きわめて特色のあるものだ。それは「不動心」というわずか三文字で表すことができる。幸い私は、その理念を書いた彼の書をもらったばかりでなく、「不動心」の意味について彼が語るのを、自分の耳で聞いた。

　それは1985年2月6日のことだった。当時私は、慶応義塾大学の客員研究員だったが、田中が招いてくれたので、東京・目白にある田中邸へ出かけ、彼と会った。秘書によると、田中は毎日、2、3百人に会い、その大部分は彼の選挙区から来た人や仕事の関係者で、一回の会見はおおむね15分を超えないという。

　しかし、田中は中国に特別な感情を抱いていたせいで、私との会見は小半時に及んだ。しかも話が中日両国の関係正常化という歴史的な話題や中国文化になると、大変喜んでこう言った。

　「指導者の責任は、情勢を正しく見、チャンスを逸することなく決断する。いったん決断を下したら、あらゆる手段でこれを実施し、そして成功に導く……自分は一生、このようにしてやってきたのです。これは私の一種の理念だと言えましょう」

　さらに私が中国の墨を贈ると、彼は「こんなに素晴らしい墨をいただいたので、『不動心』の三文字を揮毫して、墨のお礼にしよう」と言ったのだった。

　田中のこうした理念が、彼の、衆に優れたところを作り出した。理念を実践する過程で、田中はどこが優れていたのか。ここにいくつかの例を挙げて、今日の人々の参考になればと考える。

　田中は2歳のとき、ジフテリアを患い、ずっと高熱が引かなかった。病気は治ったものの、話すときにどもるという後遺症が残った。小学校に上がると、ある同級生は、田中の名前を呼ばずに彼を「どもり」と呼んだ。

　言葉の障害のため、彼はいつも誤解され、辛い目に会った。自分の方に道理があってもそれをきちんと言うことができなかった。

1973年､中国文化代表団の一員として訪日した筆者は、田中首相（当時）の歓迎を受けた

　小学校五年生のとき、彼の机の前にわんぱくな生徒が座っていて、教室でいつも大声で騒いだ。ある日、習字の授業があり、田中はまじめに習字を学習しているとき、この生徒がまた騒いだのだが、この学校に来て間もない先生は、騒いでいるのが誰だかわからなかった。そこで大声で「誰だ」と怒鳴った。するとわんぱくな生徒は、がたがたと田中の机をゆすって、騒いでいるのは自分ではないように見せかけた。そこで先生は怒って「田中か」と尋ねた。

　田中少年は立ち上がって弁解しようとしたのだが、どもってしまい、一言もしゃべることができない。たちまち全身の血がみんな頭にのぼったようになって、顔面は真っ赤にはれ上がり、首筋には青筋がたった。

　同じようなことが何度も起こり、田中は傷つき、苦しんだ。そこで田中少年はどもりを直す決心をした。彼は「志ある者は、事ついに成る」と信じ、高等小学校に入ってから、毎日、山奥に行って大声で唱歌を練習した。大木や壁に向かって本を読み、日本語の音節を一つ一つ発音して話す訓練をした。こうした訓練を続けた結果、田中はついに重いどもりを矯正することができた。

　間もなく学校で、学芸会が催され、日本の伝統的な芝居である『勧進帳』が上演されることになった。田中は自ら進んで主役の弁慶を演じたいと願い出て、源義経を連れて安宅の関を越える豪傑の弁慶役を演じたのだった。

　先生や級友はみな、田中がうまくやれるかと、手に汗を握って見ていた。しかし田中は胸中、成算があり、大成功を収めた。それ以来田中は、もうどもることはなくなったばかりでなく、表現は簡潔で、話す速度は非常に速くなった。ただ、かすれ声だけは残った。どもりを克服したのは、田中の理念と気力が結びついた結果である。

　田中は1918年5月4日、ある農家で生まれた。7人の子どもの上から3番目だったが、彼だけが男の子だった。

　彼は高等小学校しかでていない。しかし、実行力は非常に強く、野良仕事や大工仕事もするし、土木建築にも従事した。徴兵されて軍隊に行き、中国・黒竜江省に駐屯していたときに上等兵になったが、肺炎を患って除隊となり、帰国した。

　17歳になると田中は、ポケットに10円札を突っ込んで故郷を出、遠くへ働きに出た。どんな仕事をやっても彼には独特の見識があり、難しい問題をうまく解決することができた。

　田中は、実際の仕事を通じて自分の教養を高めることを心に決めた。ただ困ったことに、時間がなかった。そこで、「機会はただ一回しかない」という意識が生まれた。つまり復習する時間がないのだから、一回でしっかり覚えてしまおう、と自分に求めたのだった。

　田中は独学で英語を学ぶのに『簡明英語字典』を暗記し始めた。一ページおぼえるとそのページを破り棄ててしまう。そして字典が全部破られて紙くずになった時には、英単語をほとんど完全におぼえてしまったのだった。

　後に大蔵大臣になったとき、米国で開かれた国際通貨基金（ＩＭＦ）の設立総会で、田中は意外にも流暢な英語で演説し、好評を博した。

　彼はまた、日本語の教養を高めるため、同じやり方で『広辞苑』などをおぼえた。そのため彼の書く文章は流暢、簡潔で、しかも急所をずばり突いている。それほどの文化的な薀蓄があったから、彼はかつて小説家になりたいと思ったことがあり、実際に『日の出』という小説を書いて賞をとったこともある。

　誰かが歌を歌うと、田中は二回聴いただけで歌詞を覚えて、歌うことができるようになってしまう。田中の驚くべき記憶力は、彼の理念と勤勉さからもたらされたものだ。このため、田中の頭脳はコンピューターだと言われ、長い間、土木建築に従事してきたので、人々は彼を「コンピューター付きブルドーザー」と呼んだ。

田中角栄が筆者に贈った「不動心」の揮毫

　田中は自分自身、一定の実力と天賦の才があると感じたため、政治家になろうと決意した。1946年の衆議院議員選挙に立候補したが、あわただしく出馬したため、準備不足で落選した。しかし田中は翌47年、29歳の若さで再び挑戦し、見事当選した。

　しっかりした理念を持っていた彼は、衆議院議員に連続10回以上当選し、政界にとけ込み、自民党主流派に入った。39歳で郵政大臣に任じられ、44歳で、内閣の主要閣僚である大蔵大臣になった。そして優れた業績をあげ、胆力も見識もある、頭の切れる、特色ある政治家と言われるようになった。

　自民党内では、自分の派閥を急速に大きくし、自民党内の実力者が座る幹事長に三度も就任した。大蔵大臣も自民党幹事長も、首相の座に通じる階段である。

　田中は郵政大臣の時も大蔵大臣の時も、人々の期待に背かなかった。その成功はみな彼の理念がもたらしたものだ。例えば、郵政大臣のとき、機構改革に大ナタを振るい、39の民放テレビ局の開設を許可した。これによって田中の知名度は高まった。

　大蔵大臣に就任したとき大蔵省は、金融・財政の経験がない彼をあまり歓迎しなかった。そこで田中は就任演説のとき、こうした大蔵省内の考え方に対し、独特の言い回しでこう演説したと伝えられる。

　「皆さんよくご存知の通り、私は学問のない人間です。幸いにして諸兄はみな全国の秀才ばかりで、私も一生懸命勉強しますから、みなさんは思い切って仕事をしてください。責任は全部、私がとりますから」

　この言葉で、大蔵官僚の疑念や心配は吹き飛んだ。「不動心」の理念で、田中は数々の難関を突破し、ますます多くの人々の信頼をかちとったのである。

　完全な人間はいないし、完全に純粋な金もない。田中は金集めに手段を選ばなかったし、金を使ってコネをつくった。その結果、最後は金でつまずき、倒れた。また田中はせっかちで、人の言うことを聴かなかったため、これが誤りにつながった。

　しかし、田中角栄という人物の一生を通じて評価すれば、彼には衆に優れたところがあることがわかる。その断固とした非凡な気力、刻苦勉励して学ぶ精神、人を中心とするやり方など、これらはみな田中独特の長所と考えられる。ここから私たちが啓発され、学ぶべきところは多い。（2002年9月号より）