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楊国光氏は、中国台湾省の中レキの出身だ。1945年、日本敗戦の日を、家族とともに日本で迎えた。この日、彼らは祖国中国の勝利と台湾の日本統治からの解放を祝うとともに、戦争の被害者ともなった日本国民の悲惨な姿を目のあたりにした。中日国交正常化30周年の今年、詳細かつ生き生きとした当時の記録を、楊氏に寄稿してもらった。決して忘れてはならない両国の歴史と平和の貴さを、本稿に改めて思い起こすことができるだろう。(編集部)
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1936年中レキの萬春薬店まえで。後列左より祖母、祖父、母と弟、前列左より作者、兄の楊海光。父・楊春松はこの時、獄中にいた |
故郷の中レキは台湾西北部の小さな町。いまは桃園県下、人口25万と中クラスの近代都市として栄えているが、わたしが生まれて間もない日本統治時代の1930年代は、新竹州管轄下の「中レキ郡」所在地、公会堂と日本人小学校を除いてめぼしい建物もなく、駅前に民家のひしめくうら寂しい田舎町だった。
祖父が経営し、伯父が引き継いだ萬春薬店は中ロ゙駅から一本道の途上、メーン通り三叉路の中心に近く、一族三世代の夫婦が寄り添うように共同生活を営んでいた。
この薬店の斜め向かいが赤レンガづくりの野菜市場、夜明けとともに売り手、買い手でにぎわう。三叉路通りの一本をはさんで、市場の向かいの奥まった白い砂利車道の先に「中ロ゙第一小学校」があった。
二階建て洋風のりっぱな日本人学校で、ふつうの台湾の子には高嶺の花、彼らはここから締め出されて、台湾人子弟だけの「公学校」へ通わされた。
一種の嫉妬心からか、わたしをも含めて台湾の子供たちがよく日本人生徒を相手に、小石を投げ合ってケンカをする。第一小学校の砂利道の小石は格好の「武器」だった。「内地」と「外地」、日本人と台湾人の差別、そのアンバランスを子供心に感じとっていたようである。
子沢山で世話もしきれず、母親はわたしが五歳になると、はやばやと公学校へやった。「新街公学校」は町外れの田んぼの中、バラック造りの粗末な教室が数間、黒板と机だけはそろっていた。
真白い軍服を来た退役の海軍下士官、丸坊主の日本語教官が竹ムチを手に、書き取りをする生徒たちを背後から一人ひとり見てまわる。少しでも行儀が悪いと問答無用、「ビシッ」とムチで打つ。ムチは細いほど痛い。緊張に身を硬くして机に向かった印象が今もある。
ちなみに日本統治時代、台湾子弟で中学へ行けるのは、全体のわずか2・3%。また台湾人が軍事、政治、法律を学ぶことは固く禁じられ、地元での最高学府も師範学校と医学校までと定められていた。大学への進学は、ほとんどが日本本土か海外に求めるしかなく、それも費用がかさみ、台湾人には狭き門であった。
思い出がいま一つ。
わたしの父は台湾の祖国への復帰を求める「反日」活動のかどで牢に繋がれていた。いちど母に連れられて面会に行った。場所は台中刑務所。
面会の際の決まりか、囚人の移動中ゆえか、父は深編み笠をかぶったまま、獄舎の外でわたしたちと対面する。すでに亡くなった祖父の臨終の模様、夭折した兄・海光のことなど、母が言葉少なに報告していた。その間、槍のように細く長い棒を持った獄吏が周囲を往来して立ち聞きをする。
「お前の父さんだよ」と頭越しに母からせかされるまでは、わたしは何がなんだかわからず、ただ唖然と眺めていた。深編み笠の父の顔こそ見えなかったものの、彼にはわたしたち二人がよく見えたに違いない。物心ついた頃のわたしと父の初対面である。
今の若い人になじみのない言葉に、宗主国というのがある。力で植民地や従属国を己に帰せしむるか、他国の内政や外交に直接関与して己に従える植民地主義、帝国主義国家のことを指す。終戦前、台湾と朝鮮に対する日本がつまり宗主国であった。
1938年、父が6年の刑期満了で出所、大陸への夢を未来に託して日本をめざした。母とわたしと弟はつぎの年、台湾を離れた。数え年8歳の時のことである。
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1941年5月、小学校3年生の遠足での記念撮影。最後列右から2番目が小林先生。小石川植物園で |
数日間、激しい船酔いで航行中のことは記憶にないが、錨を下ろしたところが下関、初めて踏む異国の地である。波止場には、父がひとりで迎えにきていた。ほぼ一年ぶりの再会である。わたしたちはその日のうちに汽車で東京へ向かった。
この東京での最初の落ち着き先が板橋。次に、今は小石川五丁目の久堅町へと移った。ここは下町。千川通りの裏、暗い路地をはさんで、和式の古い木造家屋が八軒、すでに六世帯の日本人と、一世帯の朝鮮人が住んでいた。一家は終戦間際の1944年後半までここで暮らした。
際立った思い出がいくつかある。
わたしが小石川の竹早小学校(のち国民学校と改称)に通って間もないある日、食事を済ませて学校へ向かった。
伝統の中華料理の香味野菜のひとつにニンニクがある。今でこそ消炎剤、解毒剤としてチフス、コレラ、赤痢、結核などの治療に、わけてもガン細胞の発生・増殖の抑制に効果抜群だとして神聖視されているが、当時は普及していなかったためか、むしろ臭いモノとして嫌われた節がある。このためだろう、母もつとめて使い過ぎないように心がけていた。
どうしたわけか、この日の休憩時間に、腕っ節の強そうな同級生数人がケンカを売ってきた。
「お前、臭いぞ!」
「お前、生意気だ!」
「チャンコロ!」
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終戦間もない本郷西片町に家の前で。後列右端が父の楊春松、中央が母の許良鋒、後列左端が筆者 |
言いがかりをつけて、しゃにむに殴りかかってくる。いわれなく殴られたのがよほど口惜しかったのだろう、わたしは運動場に大の字になって横たわったまま泣き喚きつづけた。誰がなんと言おうと、起きようともしない。
これには担任の先生も校長先生もてこずったらしく、早速久堅町のわが家へ使いをよこして助けを求めた。当時たまたま台湾から父を訪ねてきた叔父が駆けつけ、やっとわたしを連れ戻した。
今で言えば「いじめ」、植民地の子供「いじめ」である。まだ分別のない子供のなしたことと言えばそれまでだが、これが当時の支配的社会風潮であったことも否めない。
日本でも台湾でもどこでも、「小さく」控え目に生きねばならない。二等国民であることの辛さを、いやというほど身にしみて感じた出来事であった。しかし、五年間通っていた竹早小学校で、後にも先にもこれ一回きりだった。
かたや、良き師、良き友にも巡り会えた。小学校2、3年生の時、受け持ちの先生に石田と小林のご両人がいた。小林先生はのちに太平洋戦争勃発後間もなく出征、南方へ向かった。このお二人だけは差別をすることもなく、台湾からやってきたわたしに対しても公平で優しかった。
同じクラスに勉強をよくし、成績も優秀な朝鮮人の生徒がいた。柳君と言い、人となりはおとなしく、控え目でいて力持ち。悪童でさえ、一目おいていた。同じ植民地出身という仲間意識でもあったのか、わたしたち二人は気が合い、よく一緒に勉強もし誘い合って学校へ通った。
お二人の先生は担任のつど、柳君を級長に推薦した。クラスには日本人生徒が50人以上もいたが、竹早小学校ではおそらく初めての朝鮮人級長である。わたしは彼のもとで班長を務めた。太平洋戦争のさなか、柳君は両親とともに故里の朝鮮へ引き揚げ、間もなく音信を絶った。
いま一つ、小学校3、4年生の頃のこと。ある日、父について竹早町の友人宅を訪ねた。なぜかこの日に限って、父は普段着の背広代わりに、祖父から形見に譲り受けた厚手の長着「中国服」をはおった。なんでだろうといぶかりながらも、あえて詮索もしなかった。
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中レキ公会堂前で。右より叔父の友人。1936年9月8日撮影 |
久堅町のわが家から千川の狭い裏通り沿いに、共同印刷のある大通りまで行ったところを右折、吹上坂を登って市電・区役所前へと向かう。ここはゆるやかな坂道、その半ばに交番がある。平常通り、お巡りが立っている。
黄昏時とはいえ、外はまだ明るい。その交番の前を通る時は、手に汗にぎる思いだった。お巡りが「中国服」姿の父を眉をつり上げ横柄な目つきで眺める。彼もあまりの突然の出来事に唖然としたのだろう、われに返る頃には、わたしたちはすでに交番の前を通り過ぎていた。
時は「大東亜戦争」の真っただ中、新聞は「鬼畜米英、撃滅」をうたい、ラジオは軍艦マーチを流して皇軍の大陸での赫々たる戦果を喧伝し、国中が勝利に継ぐ勝利に沸き立っていた。そんな時、父にすれば意地にでも「われ中国人、ここにあり」とでも叫びたかったのだろうが、ちょっと勇気のいることでもあった。
8月15日は真夏だったが、興奮していたせいか、暑さを余り感じさせなかった。正午きっかりに、「終戦詔勅」の放送があるからと斜め向かいに住む芦沼隣組組長の伝言である。
この年の7月、夏休みに入って間もなく、戦争はもうこれで終わりと先を急ぐかのように、わが家は疎開先の多摩川上流の寒村から都内へと引き返し、焼け残った本郷西片町に移り住んだ。
この隣組の最後の集会に、わたしが両親に代わって出席した。この日、通りは人影もまばらだった。12時10分ほど前に出かけたが、組長宅の八畳はある茶の間はすでに町内会と近所の人たちでいっぱいだった。多くは奥様連中で、和式の低い机の上に置かれたラジオを囲んで正座し、粛然として頭を下げている。
むせるような重たい空気が辺りを支配し、長時間待たされたようだった。初めて聞く、戦争始まって以来の天皇の「お声」である。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ……」
右に始まる詔書が、天皇独特の平坦な調子で、ゆっくりと一字一字かみ締めるように読み上げられていく。うち「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ」のくだりは、悲壮なまでに胸につかえたようで、深く印象に残った。
大声で泣き喚くことこそしないものの、ほとんどの人は目頭を押さえたまま身動きひとつしない。おそらくは近代始まって以来、味わうことのなかった敗北の体験だけに、多くの人はこの瞬間を悲劇として受け止め、屈辱の思いが先立ったであろう。
こうした時、すべてを控え目に、静かに振る舞うのが礼儀作法のひとつでもあるのだろう、わたしは目立たないように、ひとりそっと静かに立ち去った。
家に戻ると、そこは別天地。両親が末の妹をあやしながら、その頃わが家に居候していた甥や友人たちを交えて談笑していた。
「中国は戦争に勝った」
「もう肩身の狭い『二等国民』ではなくなった」
今なら、魚の干物の一つや二つならべて日本酒の一本も開けるところだろうが、当時は食料難時代、湯のみ茶碗をかわしての祝宴であった。
勝利したとはいえ、中国も絶大な代価を支払わされた。8年にわたった抗日戦争だけでも死傷者合わせて3500万人。台湾および澎湖列島は中国に返還されたが、50年と四カ月におよんだ日本の統治期間、65万の台湾人がさまざまな形で殺害、または獄死している、当時の人口が百万単位(1934年の統計では519万4981人)であったことを考え合わせれば、この数は天文学的数字と言わねばなるまい。
8月15日前後、敗戦で罪の裁きを受けるのを潔しとせず、または狂信的にみずから死を選び、武士道に則って割腹自殺した軍人のいることをマスコミが伝えていた。その数、日本全国で8000人になるという。またこの日からしばらくの間、軍服姿の将校や和服をはおった男性、モンペ姿の女性、ひいてはおさげ髪の女子学生が宮城前広場の砂利に正座し、二重橋に向かってひれ伏しているのが見受けられた。
言うなれば、この戦争も「諸刃の剣」。「切り捨て御免」で中国やその他のアジアの国の人々を危めれば、返す刀で自国民をも傷つけた。この意味では戦時中、310万の犠牲と、死と背中合わせの生活を強いられた日本国民もまた被害者であった。このなかにはお粗末な軍国主義の愚民教育で戦場に駆り出された数百万の兵員・兵士、広島・長崎の被爆者、「外地」に赴いた開拓団の人々、さらには「女子挺身隊」の乙女たちも含まれていよう。
軍国主義に虐げられた、疲れきった日本国民の悲惨な姿を、敗戦の日、垣間見る思いだった。
「8・15」から早くも50有余年。ドイツとは違い、ややもすれば風化しがちの日本のこの過去への対応。そして曲がりなりにも平和を保ちつつ、経済の復興と発展に励んできた日本のこの半世紀。靖国のことやら有事法制やら、依然雑音がなくもないが、もっと素直に過去と向き合い、大きな迷惑をかけたアジアの人々の声に耳を傾けてはどうだろうか。中日国交正常化30周年の節目にて想うのである。(2002年9月号より)
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