貴州省・鎮遠 ゆるやかに時が流れる
              写真・馮進 文・丘桓興


 鎮遠は、中国西南部にある貴州省の東部に位置する。この中国の歴史的な文化都市を訪れ、印象を深めたのが青山と碧水、古い路地と井戸である。

渡し舟が人々の足

河上の古城・鎮遠。家屋の「凸」形の外壁はとくに人目をひいた

 青山に囲まれた鎮遠は、その町の中を「S」字形の 陽河がゆるやかに流れている。
 町の東側の河上には1991年冬、水力発電用のダムが建設された。水位が上がり、青くなめらかな水はまるで鏡の面のよう、両岸に軒を並べる建物は、水面に浮かぶかのように見える。一部の建物は「吊脚楼」(柱で支える張り出した建物)と呼ばれる造りで、そのために水中にそびえるように見えるのだ。舟が通り過ぎると、その影もゆらめく……。こうした風景は、人々にイタリアの水の都・ベニスを思い起こさせる。それで、この地は「東方のベニス」と称されている。

「上北門」埠頭
古城を貫くヴ陽河は、人々の生活と密着している。通勤や通学、買い物など、小銭さえあれば渡し舟が利用でき、とても便利だ

 西から東へと流れる 陽河は、地元の人々にとってかけがえのない存在である。夏ともなると、ベランダを飛び込み台にして泳ぐ子どもや、ベランダに座り、釣りを楽しむ人たちがいる。旧暦5月5日の端午節(端午の節句)には、竜舟(ペーロン)のレースを応援する人々が両岸をうめつくし、大いににぎわう。7月15日の中元節の夜には、河に浮かべたたくさんの蓮華灯が流される。それはまるで仙境のような美しさである。

ちまきは端午節になくてはならない食べ物だ

 中国の伝統的な風水説では、「S」字形の河は太極図によく似ているため、「風を収めて良い気を集め」、財産や福をもたらすという。確かに、古代の舟は 陽河に沿って下り、湖南省の聿江を経て洞庭湖に入り、さらに長江の流れに沿って東や北へと進んでいった。こうして、この水路により貴州省と中原が結び付き、鎮遠は埠頭のある町として、また商品の集散地として栄えたのである。

 ダム建設後は、水上運輸に多少の影響を与えたが、南城(町の南部)に鉄橋がそびえる湘黔鉄道(湖南省長沙―貴州省貴陽)と、四方八方に通じる道路の開通により、鎮遠の交通はさらに便利で、スピーディーなものとなった。

河辺の朝市
端午節に行なわれる盛大な竜舟レース(写真・馮徳鎮)
 
古城に現れた現代的な生活様式   「藍波湾」美容院は英語の「ナンバーワン」の発音をまねた名前だ。常連客は若い女性で、大都市の女性と同じように美への関心も高い

 600年前、東側の河上にかけられた 渓橋(後に祝聖橋に改名)は、北城(町の北部)と南城とをつないだ。非常に珍しいものだが、その橋の上には、雄大な魁星閣が建てられている。1902年、貴州省を視察した日
本の著名な人類学者・鳥居龍蔵氏は、鎮遠で祝聖橋の写真を撮った。それは祝聖橋の姿をとらえた最古の写真となっている。
鎮遠は「ヴ陽鎮」とも呼ばれる。1986年12月、国務院(中央政府)により「歴史的文化名城」に指定された
静かで平和な暮らしだ

 後に、町の中心部や西部にもそれぞれ鉄筋コンクリートの新しい橋がかけられた。また、2キロ足らずの河には、大小19カ所の渡し場が造られた。河を渡る人があれば、たとえ一人であっても船頭が舟をこいでやってくる。そのため回り道をして橋を渡るより、2角(約3円)を払ってもなお便利と、渡し舟は多くの人たちに利用されている。

 明け方、古城の朝市を撮影するために、我々は渡し舟で、南城の河辺に開かれた市場へと向かった。河沿いの通りの両側には、地元の農民たちが運んできた様々な野菜やくだもの、鶏、アヒル、魚、肉、軽食などがいっぱいに並べられていた。魚売りは河の中にいけすを設け、生きた魚をすくっては売る。そのため魚は新鮮で、商売は大繁盛のようすであった。

古い路地と井戸

古い路地

 鎮遠の北城はその昔、政府所在地だったので、「府城」とも呼ばれる。官吏や商人の家の多くは、北城にある石屏山の南麓沿いに建てられている。家々は山麓から頂上へと、まるで階段のように建てられており、遠くから見ればその四合院(中庭を囲む中国特有の住宅)の一つひとつが、順番に並ぶ大きな四角い印鑑のように見える。

代々伝わる四合院は歴史的な証でもある
町のいたる所で見られる精巧な石刻芸術

 とくに人目をひいたのは、そびえるように立つ家屋の「凸」形の外壁だった。盗難や火事を防ぐためのものである。万が一、火事が起こっても火の燃え広がりを防ぐことができるので、俗に「封火壁」(防火壁)とも呼ばれている。

 この古い民家の集落には、西から東へ衝子口巷、仁寿巷、復興巷、四方井巷など十数本の路地があり、中には 陽河の北岸の埠頭にまっすぐ通じるものもある。そのため、商人たちが埠頭で貨物を積み下ろしするのに役立っている。

 我々は衝子口巷に沿って、階段を上っていった。この路地の長さは400メートル、幅1、2メートル。青い石板が敷き詰められており、ずっと奥まで続いているように見える。市場経済のスタートにより、雑貨店や食料品店、漢方医の診療所などが相次いで設けられ、マージャンを打つ音までが響き渡って、古い路地はなかなかのにぎわいだ。

 衝子口巷には名家の四合院があった。彫刻や飾りなどを施した正門の屋根や、竜とゾウの姿を刻んだ石柱は、いずれも見事な造りである。四合院は後に両湖(湖南・湖北省)出身の商人に買い取られ、「両湖小学校」として使われていたが、現在は鎮遠県の図書館になっている。こうした古色ゆかしい庭内で学ぶのは、じつに心地よいものだろう。

古い「豚槽」井戸。いまも飲み水に利用されている

 古い路地には、古井戸が多い。石崖のそばにある「雲泉」井戸は、その上方に枇杷の木が一本あるため、別名「枇杷」井戸とも呼ばれる。また、別の細長い井戸は、ブタのエサを入れる木槽(エサ箱)に似ているため、「豚槽」井戸と呼ばれる。品のない名前ではあるが、石崖から流れる小さな滝が無数の真珠のように井戸水に散り落ちて、とてもきれいだ。

 四方井巷は、四角い古井戸があることから、その名がついた路地である。井戸の口には数百年の間に、つるべ縄に磨かれてできた深い溝があった。現在は、どの家も水道水を使っているが、このあたりの住民たちは依然として井戸水を飲んでいる。夏の冷たい井戸水は、暑気払いや解熱によく効き、冬の温かな井戸水は、胃や脾臓にもよいとされている。近年は、女性たちがこの水を争うように飲んでいる。やわらかで、きめの細かい肌になるからだという。

 これほどまでに人々に親しまれる井戸の近くには、いずれも井戸神を祭る廟が設けられており、香火が絶えない。それは神様のご加護によって、古井戸を保護しているのかもしれなかった。

古い民家を訪ねる

鳥居龍蔵氏も目にしただろう鎮遠の青山と碧水、祝聖橋

 県文物管理所の劉所長の案内で、我々は復興巷にある傅舜徳さんの家を訪ねた。彼の祖先は竹かごを担ぎ、はるか江西省からやってきた。倉庫問屋(運輸業)を営み財をなし、150年前に、ここに二つの庭と、九つの部屋からなる四合院を建てた。前庭の地面が路地より2メートルも高いので、邸宅はいっそう雄大に見える。

静かに暮らす人々

 ただ一つ不思議なのは、正門が西南角に建てられていることだ。垂花門(屋根つきの門)や門の上部にある横木、門前の土台石に施された彫刻は、いずれも精巧で美しい。

 門を入ると、四角形の前庭が目に入った。黒い石が地面に敷きつめられており、東側には二階建ての建物があった。母屋は、前庭よりさらに2メートル高い地面にあるので、10の石段を上っていった。

 母屋の真ん中は広い居間になっており、その部屋の両わきの壁に沿って明・清代の堅木製の四角いテーブルと太師椅(旧式の木製椅子で、尊位のものが使った)、茶卓などが並べられていた。ここは客間兼食堂だ。また、居間に通じる両側の部屋は寝室である。

 少し狭い裏庭には、東西のわき部屋と庭より1メートル高い裏部屋があった。それぞれが炊事場や倉庫、洗面所として用いられ、窓の格子と仕切りの扉にはいずれも木彫りが施されていた。

 なぜ、正門を中軸線上ではなく、西南の方角に置くのかと聞くと、県建設局の傅舜徳副局長はこう言った。

 「斜めに向いた正門は、ここの建築の特色なのです。そこには風水の考え方ばかりか、実用的な意義もある。昔の官吏や商人は、財があってもそれをあらわにしなかった。真南に門を置いたら通行人にのぞかれやすいが、西南または東南に門を置いたら、人の目に触れにくいでしょう。その上ここは夏が長くて暑いので、直射日光をさえぎるためでもあったのです」

 我々は汗だくになりながら歩いていたが、ちょうど正午になったので、中央の部屋に腰を下ろすと、なんともひんやりとして涼しくなった。

斜めに向いた正門は鎮遠古城の建築の特色だ

 主人は言った。「まさにこの部屋の長所ですよ。 陽河からの涼風が、石屏山づたいに吹いてきて、この階段状になった二つの庭を通り抜けるのです。部屋を吹く風はとてもさわやかで気持ちがいいでしょう」。静かな庭で本を読むのは、きっと心地よいことだろう。このような環境に恵まれたこの家では、1人の息子と2人の娘が、それぞれ南京、西安、重慶の有名な大学に合格した。しかし、老朽化した部屋の地面は湿気が高く、家具や衣服、身の回りの物がカビやすい。そのため数年前に、床に湿気を防ぐための磁器タイルを敷いたので、部屋の中がますます明るくなり、住みやすくなったという。

清代大臣の大邸宅

150年余りの歴史をほこる傳氏の邸宅。「良弼名家」と記された横額は、この家が建てられた時に友人から贈られたものという

 鎮遠の邸宅の中では、西郊外の大菜園にある譚鈞邸が、最も大きく、精巧な造りで知られている。譚鈞は、清代の雲貴(雲南・貴州省)地方の総督だった人物である。

3人の子どもは大学生となり、現在は傳舜徳さんと母親、夫人の3人がここで暮らしている
昔日の譚公館(譚鈞邸)は現在、鎮遠城関第4小学校となっている

 南に面し、二つの庭を持つ四合院は、敷地面積1253平方メートル、建築面積1326平方メートル。その前方に 陽河が流れ、後方には緑豊かな平冒山をひかえており、すばらしい環境である。

 東南の方角にある正門をくぐると、前庭には客間と東西両側にある二階建てのわき部屋、「中庁」(祖先の位牌をすえ置くところ)が見えた。裏庭には東西のわき部屋と二階建ての裏部屋、出入りできる裏門などがあった。二つの庭には、花や木が植えられていた。邸宅は、高さ9メートルの封火壁で外部と隔てられており、厳かなたたずまいであった。

昔は「両湖小学校」だったが、今は鎮遠県の図書館となっている

 百年以上の歴史を持つこの重臣の邸宅は、慈禧西太后が光緒帝の名で賜り、重臣のために建てたものだ。後に、鎮遠城関第四小学校となり、もとの母屋やわき部屋、客間は、教室や教員室、教師の宿舎に、「中庁」と庭は子どもたちの放課後の遊び場になった。

 劉所長の話では、ここは1984年に県の文物保護単位に指定された。しかし経費の問題で、新しい学校を建設する力がないので、いまも小学校として使われているという。幸いなことには、教師がいつも「文物遺跡を保護するように」と子どもたちを教育している。そのため、門扉のレリーフや窓に施された花鳥のすかし彫り、柱、梁、斗拱の彫刻はいずれもよく保存されているのであった。(2002年10月号より)