大地をアートの舞台に
――蔡国強氏

           黄秀芳

「芸術とは奇想天外なものだ」と熱っぽく語る蔡国強氏(写真 王衆一)

 蔡国強氏は、火薬を使った「爆破プロジェクト」の魔術師として、また中国を代表するモダンアーティストの一人として、世界的に知られている。

 昨年10月20日夜のことだ。15年ぶりに祖国に帰った彼は、上海で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)のクロージング・イベントのために、花火によるロマンチックで壮大なパフォーマンスを正式に実現させた。空前ともいえるダイナミックな作品で、上海と中国の今の姿を世界中に披露したのである。

 夜空に向かって数万の花火が打ち上げられ、神秘的で美しく、創造性と想像力にあふれる花火が、黄浦江ほとりの上空を鮮やかに染めた。蔡国強氏の名前も、その時に光り輝いた。この世界的なアーティストのことは、中国ではそれまで、美術界や一部の関係者に知られていたにすぎなかったのである。

古きを破り、新しきを創造

 蔡国強氏は今年44歳。歴史的な文化都市である福建省泉州市に生まれた。1985年、上海戯劇学院の舞台美術学部を卒業し、86年末に日本へ渡った。作品を通して徐々に知られるようになった彼は、日本のモダンアート界で最も注目されるようになり、やがて世界的にも有名なアーティストへと成長していった。

 90年代からは、火薬を使った大規模なインスタレーション・アートで名声を得る。『プロジェクト・フォー・ET』(宇宙人のための計画)シリーズは、その作品の一部だ。その後10年間、彼は世界各地で30回以上もこの「爆破プロジェクト」を実演した。

 芸術の表現手段として火薬を使ったのは、蔡国強氏が世界でも初めてである。そのインスピレーションは、ふるさとで培われたものだという。海上シルクロードの出発点として栄えた泉州は、彼に独特の文化・習俗や世界的な影響を色濃く与えた。「ふるさとでは、火薬をよく見かけましたよ。正月や祭りになると、どの家でも爆竹を鳴らして邪気を払ったし、ふだんでも山を爆破したり、石を砕いて家を建てたりする時に、よく使われていました。火薬は手に入れやすかったのです」と彼はふりかえる。

上海APECにおける花火パフォーマンス。蔡国強氏の作品『明珠耀東方―終曲』(東方を照らす明珠―フィナーレ)

 上海戯劇学院に在学中だった80年代初頭、伝統的な技法による創作に不満を覚えはじめた。「それはあまりにも魅力と偶然性に欠け、コントロールしやすかった。面白みに欠けたのです」。そこで、創作に用いる特別な材料を探しはじめた。彫刻された太古時代の岩絵の上にキャンバスを置き、拓本をとったり、それが終わると火薬を使い、拓本の跡(紙に写しとられた痕跡)を爆破したりした。また、海岸の岩石やガジュマルの根の拓本をとり、そこから新しいイメージを生み出した。「大自然の力を用いて、有限のものを無限にした」のだ。

 彼は言う。「火薬を使って、二つのものを突破します。一つは、自分の生活にプレッシャーを感じていますから、爆発という破壊的な活動で自らを解き放つ。もう一つは、爆発によって保守的な造形を打ち破り、その偶然性から伝統文化のマイナス面を突破する。爆発で、作品に偶然的な効果が得られるのです」

 蔡国強氏がキャンバス上で火薬を爆発させた「火薬絵」作品は、日本で花開くと同時に、日本の芸術界から高い評価を受けた。それは日本の形式美に対する追求が深く、また、材料に用いた和紙が火薬爆発に細かく反応したことなどによる。しかし、彼はけっして満足しなかった。89年以降は、火薬を絵画に使うだけでなく、野外での巨大な爆破プロジェクトにも使うようになった。

『草船借箭』(1998年)

 彼の数多くの爆発作品のうち、96年にマンハッタンで創作した『キノコ雲のある世紀――20世紀のための計画』は、わずかな火薬で驚くべき爆発力を示した。ファックス用紙に使われる紙製筒型のしんに、爆竹用の火薬を入れて、それを手に持ち、高く掲げて火をつけた。左にマンハッタンの世界貿易センタービルが、右に自由の女神像が見えた。火薬はたちまち爆発し、きのこ雲のような大きな噴煙を上げた。

きのこ雲は、核実験と核戦争のシンボルである。アメリカは千回以上の核実験を行っており、それは全世界で行われた核実験の半数を占めている。その作品で、アメリカの核兵器を風刺した蔡国強氏だったが、5年後に同じ場所で、「9・11」事件(アメリカの同時多発テロ事件)が起ころうとは、予想だにしなかった。

 古きを破り、新しきを創造する。93年の作品『万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト』は、きわめて壮観だった。長城の最西端・甘粛省嘉峪関から、さらに西へ広がる砂漠の中に、1万メートルの火薬と導火線を引き、たそがれ時に点火。パフォーマンスの15分間、炎と煙による壁は、まるで巨大な竜が西の空へ飛び立っていったかのように見えた。時間と空間、歴史と文化、芸術が、瞬時のうちに融合し、新しい創意を生み出したのである。

芸術家の課題

 中国の著名な映画監督・陳凱歌は、かつてこう言ったことがある。「映画は、自分の人生観を表現するものだ」と。蔡国強氏の作品の中にも、暮らしに対する考えや、現実への関心がある。しかもいつも新しい。それも、彼の作品にパワーがある理由となっている。

 しかし、作品の出発点が必ず人類・社会の問題にかかわる思想なのかと聞けば、彼はそれを否定する。それはもちろん、自らの思考のテーマになり、創作課題にも影響を与えるが、「アーティストとして重要なのは、美術史をさらに開拓し、革新すること。世界の芸術舞台では、たえず創造しなければならないのです」。そのことばの中にも、アーティストとしての本領が発揮されている。彼は、芸術的なことばや手段の革新にも余念がないのである。

『龍が来た!/狼が来た!――チンギスハンの舟』(1996年)

 彼の作品は、つねにタイムリーで批判性に富んでいる。それは「ただ正直に周りの変化を見ているから。日本でもアメリカでも、どこにいても同じですよ」。

 日本には9年ほど暮らしていたが、彼の印象では、当時の日本美術界はみな西洋に目を向けていた。「日本は明治維新以降、国の国際化と現代化をめざして努力した。世界の強国になることが、日本の重要な課題だったからです。80年代になると、彼らは反省しはじめた。百年来の努力の結果、日本は西洋化してしまったからです。経済面では成功したが、政治と文化はやはり西洋の端の方にいるにすぎないのです」。そのため日本は、どのように西洋と向き合うか、東方美学の秩序を打ちたて、どのように文化の旗幟を鮮明にするか、たえず探求してきた。こうした日本の現実に対し、彼は奇妙であると思いながらも、現状打破のための突破口を探しているのである。

 それと同時に、日本の新しい科学技術とバイオテクノロジーの研究は、彼をすっかり魅了した。中国を離れる前、宇宙物理学について詳しくなかった彼は留学後、日本ではすでに「宇宙の誕生前」まで研究が進んでいたことがわかった。「私は日本でそういう時代に直面していた。日本のハイテク分野の進歩に、大いに奮い立ったのです」。そして、日本のアーティストたちがその苦しい立場をどうやって抜け出すかという考えと、光ファイバー、タイムトンネル、ビッグバン、ブラックホールなどの事象を結び付けて、斬新なアートシーンを切り開いたのである。

 それは90年のできごとだった。彼はフランスで行われた展覧会に参加した。発表したのは『人類がその45・5億年経った星につくった45個半の<隕石クレーター>』。1万余平方メートルの土地の上で、大爆発により45個の穴を作ったのである。瞬時に起こった炎と煙を前に、「私は完全に宇宙と一体になったと感じた。芸術や文明はその瞬間に、取るに足らないものだと思いました」と彼は述懐する。

『上網』(2002年)

 東方美学の秩序を打ちたて、文化の旗幟を鮮明にするために、彼は宇宙や宇宙人、地球を創作の主なテーマにした。そしてさらに高いハードルを自らに課した――我々は今、東洋と西洋の問題よりも、もっと深刻な問題に直面している。それは人類がどのように自分たちの問題を解決するか、ハイテクを生かすと同時に、どのように人類滅亡の危機を回避するか――という課題である。

 彼は作品で、東洋と西洋の違いを超えてはるか高い地点から、東洋の哲学の力を提示した。フランス在住の中国人評論家・費大為氏は「この作品は、日本人評論家が中国と日本のモダンアートを比較して、自己批判する主な事例になった」と評価した。

「草船借箭」

 95年、蔡国強氏はアメリカに赴いた。当時のアメリカは「中国威脅論」にわきたち、中国人の彼にとっては大きなプレッシャーがあったことも事実だ。

 日本にいた時は超然としていたが、アメリカではそのプレッシャーが、それまでの「自然・宇宙的な表現」から、「東西文化の対話」「グローバリゼーション」の問題へと彼の関心を向かわせた。表現方法も、破壊と建設を意味する爆発だけではなくなった。

 アメリカ滞在中、彼は新しい表現方法と言語を作りあげた。中国文化の素材を、芸術様式に転化させたのである。彼はそれを「文化の既製品である」と言う。

 95年「第46回ヴェネツィア・ビエンナーレ」に出品された『マルコ・ポーロの忘れ物』と、96年にニューヨークのグッゲンハイム美術館・ソーホーに展示された『龍が来た!/狼が来た!――チンギスハンの舟』は、彼の才能の新たな開花であった。

 『マルコ・ポーロの忘れ物』は、泉州から運ばれた漁船に百キロの朝鮮人参を積み込み、ベニスの城に向かって運河を走らせるというパフォーマンス。東洋からの漁船が、どのように西洋の運河に流れついたかを、情感を込めて表現した。

『夢』(2002年)

 『龍が来た!/狼が来た!――チンギスハンの舟』は、中国の黄河の渡し場に何千年も伝わってきた羊皮袋(いかだに使われた羊の皮の浮き袋)とトヨタ自動車のエンジンを組み合わせたインスタレーション・アートである。そこに、ジンギスカン以後の東洋から西洋への遠征の可能性をにじませた。

 98年の『草船借箭』(草船で矢を借りる)は、彼の最高傑作の一つだ。中国の古典小説『三国志演義』からテーマが取られた。彼はふたたび泉州から漁船の骨組みを運び、船体に矢羽根のついた矢を三千本差し込んで、それを空中につりあげた。作品の構想は明らかだ。「古い文明が開放されて新興文明に遭遇すると、まずはその衝撃で傷だらけになるでしょう。しかし、それとともに収穫も大きい。トラウマとなる一方で、その時に受けとったものを自分自身のエネルギーにするのです」。『草船借箭』は、借りてきた力の強さを表現し、美学の上に「衝突の美」を打ち立てた。

変化から不変を

 蔡国強氏44年の人生の軌跡を見つめると、次の三段階に分けられる――中国で生れ育ち、日本で有名になり、アメリカで栄光を手にする。

 「私は、中国では素朴な子ども、日本ではまじめな子ども、アメリカではやんちゃな子どもでした」と、彼は冗談めかして言う。現在、一年のうち半年は世界各地に、もう半年はニューヨークにそれぞれ滞在する。各地を行き来するのは、彼にとっての「春秋戦国時代」である。「何でもおもしろがる子どもと一緒なのです」

 このユーモアからもわかるように、彼は自分の事業に対して、鋭い考察を寄せている。いつの時代にあっても、彼には一貫して変わらないものがある。

 それは、新しい表現形式を探求していく熱意だ。「私はさまざまな変化から不変を求める。すべては絶えず変化している」「芸術は、奇想天外な想像ができる」。変化の中に自分の秩序を求めるのが彼の風格だ。そのため彼の作品は、人々にいつも新しい発見と感動を与え続けている。

1999年「第48回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で国際賞を受賞した『ヴェネツィア収租院』

 2000年、上海で初のビエンナーレを開くにあたり、プロデューサーは彼に『草船借箭』と同じような作品を出してほしいと希望した。しかし彼は「できません。中国を離れて長いので、中国にいたころの感覚で作ることはできないのです」と率直に言った。その後、中国の人々に気持ちをわかってもらおうと『為大衆作的自我宣傳』(大衆のための自己宣伝)という広告板を作り、作品をそこに張って展示した。「中国で私が惹かれるのは、数千数万のふつうの人たち。もし、ここで仕事がしたければ、その人たちとの緊密な関係が必要です。そうしてこそ初めて作品に力が宿り、彼らと意気投合して、自分の新局面を開くことができるのです」

 2002年2月、彼の中国での初の個展が、上海美術館で開かれた。その中の『上網』と『夢』は、中国で2年間、呼吸をした彼の産物だ。幅10メートル、長さ20メートルの赤いシルクが、送風機5台のそよそよとした風にゆられて、あたかも赤い波のように見えた。上部には、泉州に伝わる民間の紙で作ったオブジェ――自動車、汽船、ロケット、洗濯機、ピアノ、衛星、マクドナルドのロゴなど、現代の科学技術や暮らしを象徴するものを掛けて展示した。美術評論家の張晴氏は、「『夢』は現代化に向かう人々の普遍的なあこがれを表現した」と評価した。

 カジュアルウエアを着こなし、いつも穏やかにふるまう蔡国強氏の姿は、前衛的なアーティストとは似ても似つかない。「私は一人の中庸者です。でも左右に揺れたり、闘志のない優柔不断の中庸者ではなく、退くことも進むこともできる。せっかちでもなければ、傲慢・卑屈でもない人間です」。そのため彼は、包容力を持ち、自信にあふれた開放的な性格なのだ。どんな環境に置かれても、冷静に他国の文化を吸収し、芸術を表現するための「天に昇るはしご」を見つけることができるのである。

【蔡国強氏の略歴】
 1957年 中国福建省泉州市に生まれる
 1981〜85年 上海戯劇学院の舞台美術学部に在籍
 1986年12月 日本へ赴く  
 1989〜91年 日本の国立筑波大学総合造形研究室で学ぶ
 1995〜現在  アメリカ・ニューヨークに居住

【受賞歴】
 1995年 日本文化デザイン賞受賞 日本
「第46回ヴェネツィア・ビエンナーレ」
     トランス・カルチュア展ベネッセ賞受賞 イタリア 
 1997年 第1回織部賞受賞 日本
 1999年 「第48回ヴェネツィア・ビエンナーレ」国際賞受賞 イタリア
 2001年 アルパート芸術賞受賞 アメリカ(2002年10月号より)