[特別寄稿]

 
 
戦後60年・混声合唱組曲
『悪魔の飽食』中国公演によせて
 

戦後60年を迎えた今年8月、旧日本軍の七三一部隊を題材にして歴史を直視し、平和への祈りを高らかに歌い上げる混声合唱組曲『悪魔の飽食』の中国公演が、南京と北京で行われる。同名のノンフィクションの著者、森村誠一氏が原詩を、映画や舞台音楽などを幅広く手がける池辺晋一郎氏が作曲を担当している(中国公演名誉団長・森村氏、団長・池辺氏)。コンサートは、1984年に神戸市で初演されてから全国各地で開かれており、98年には中国のハルビン、瀋陽でも開催された。第2回中国公演を前に、『悪魔の飽食』コンサートの足跡や抱負、期待することについて中日双方の関係者から寄稿していただいた。

「日本人の良心の灯」をともす
                      第二回『悪魔の飽食』中国公演団副団長
 田中 嘉治
                      神戸市役所センター合唱団団長

1998年8月、遼寧省の瀋陽音楽院で行われた第1回中国公演

 合唱組曲『悪魔の飽食』は、神戸市役所センター合唱団の委嘱作品として作家の森村誠一氏原詩、作曲家の池辺晋一郎氏・神戸市役所センター合唱団編詩、池辺晋一郎氏作曲による全7章からなる40分の混声合唱作品である。

 森村先生の16編からなる長大な原詩をもとに、団と池辺先生とののべ20時間にも及ぶ編詩(補作や改作という意味でなく原詩のイデーを損なわずに一つのメッセージが発信できるよう全体のコンストラクションを作る)作業を経て生まれた。「編詩」という言葉は、池辺先生の造語である。

 初演は、1984年10月23日。神戸において団員と一般公募した市民団員を含む総勢150人の合唱により1500人の聴衆を前に演奏された。

 その後、全国各地でも歌われてきたが、とりわけ1990年9月、東京での「日本中国友好協会創立40周年記念コンサート」で、演奏された際には、作曲者自らこの曲を初めて指揮し、大成功をおさめたことが、その後の壮大な事業展開の伏線となっている。

 以後、全国縦断公演は世紀をこえて、これまでに埼玉、山口、京都、茨城、岡山、大分、奈良、広島、熊本、仙台、東京、福井、神戸、沖縄、長野、高知と16回開催されてきた。2007年3月には神奈川でオーケストラ伴奏による公演が決定している。

 このような偉業が成し遂げられるのは、今回の中国公演でも事務局長として大役を担ってくださっている持永伯子さんに全国縦断コンサートのプロデューサーとして、無二の推進力を発揮していただいているからである。

 全国縦断コンサートを各地で成功させていく中で、98年夏には、七三一部隊の本拠地であるハルビンと瀋陽での第1回中国公演を森村名誉団長、池辺団長のもと全国240人の参加で大成功させることができた。『悪魔の飽食』公演を取り組むには、音楽的にも、運動的にもたいへんなエネルギーが費やされるわけであるが、過去の開催地での実例が物語っているように、「悪魔」をうたえば飛躍と平和の花が見事に咲き誇るのである。それは、この歌が、七三一部隊の真実からさらには戦争と平和の真実に肉薄した人間愛の真実を追求する作品としてのエネルギーを内包しているからである。

 一歩間違えば残酷性のみが強調されるグロテスクな音楽作品と想像されやすいテーマであり、しかも、日本の軍国主義が犯した過誤と悲劇を日本人自らが告発した極めてリスクの多い「火中の栗」を敢えて題材にして、音楽作品化を試みようとしたのか。

 着想はいつも偶然の衣をまとってやってくる。3000人以上に及ぶ「マルタ」と称された捕虜に生体実験等を重ねて、大量殺戮兵器としての細菌兵器の研究開発を行った「旧日本陸軍・七三一部隊」の全貌をドキュメントとして著した『悪魔の飽食』が、居酒屋の会話の中から突如、頭をもたげた。

第1回中国公演で、北京の中国人民抗日戦争記念館をおとずれた団員たち

 1981年の暮れから西ヨーロッパを中心に燎原の火のごとく燃え広がった反核運動は日本国内においても、文学者、音楽家、美術家、新劇人等々をはじめとする文化人の核兵器廃絶を求める反核署名や反核決議にみられるように「草の根運動」として大きく盛り上がっていった。82年の夏にニューヨークで開催される第2回国連軍縮特別総会(SSD・)にむけ、代表派遣カンパ運動や署名活動が全国各地で取り組まれた。

 この時期、神戸市役所センター合唱団でも約5千筆の署名を集めるなど、全国あげて反核活動に連帯を示すことができたが、当時の幹部集団の不団結により同年秋に予定していた演奏会を全団員一致で決定することができなくなった。すでに1年前から予約していた会場が宙に浮いてしまい、対策を練るために団長(筆者)と事業部長と2人で、飲み屋で怪気炎をあげていた会話での一コマである。

 当時全国各地で反核コンサートが取り組まれていたが、神戸でもこれまで団が取り組んできた反核運動のエネルギーをさらに発展させるために特別ゲストによる講演と合唱とで構成した平和コンサートを開き、その会場に充ててはという話が急浮上した。

 講演テーマは、いくつか案が出された中で、当時、日本中で大ベストセラーになっていた『悪魔の飽食』こそ、情勢に見合ったテーマであり、その著者である森村誠一氏を招くことができないかという、まるで夢のような話に火が付いた。

 この向こう見ずの話は、紆余曲折を経た結果、同著のベアーズワーカーである下里正樹氏の特別な計らいにより、なんと、森村氏の来神が夢物語ではなくなったのである。

 タイトルは「森村誠一とともに平和を考える音楽と講演の夕べ」に決定した。

 晴天の霹靂が起こったのは、それからわずか1カ月余の後のことだった。

 「夕べ」は当初、文字どおり平和を願う文化イベントであった。それが82年9月に勃発した著書『続・悪魔の飽食』の「写真誤用事件」を機にして、政治的性格を帯びたイベントに様変わりしたのである。これまで沈黙していた右翼・右翼ジャーナリズムが、この「事件」を攻め口にして一気に火を噴いた。『悪魔の飽食』の実録全体を疑問視するマスコミの論調が後を絶たず、「森村誠一の命が狙われている」の大見出し入り雑誌が店頭を賑わした。

 渦中の人となった森村氏が事件後、初めて公の場に登場することになった。

 公演当日、会場の受付には私服の警官が大挙して居並び、緊迫した雰囲気の中で開場が始まる。楽屋、トイレ、あらゆる適用口に配置され慣れない警備で不安な時間を過ごす団員たち。客席からステージに上がる階段は全て取り外され、公演中も客席の照明はつけたままに。森村氏は、万が一のために、至近距離からでも貫通しない米国製の防弾チョッキを着用しての登壇となった。

 いよいよ本ベルが鳴った。森村氏は、司会者のインタビューに応えて、最初はおだやかな口調であったが、時間がたつにつれトーンがあがってきた。「ここで屈服した場合、かつての日本の言論の自由は本物ではない――非常に困難(ドキュメントの発表舞台と自粛の意味において)があるが、できるだけ早く『悪魔の飽食』第三部を開始したい」

 2000人で一杯になった会場は大きな拍手に包まれる。やがて森村氏の公演が無事終わったことを告げる万雷の拍手が館内に響きわたった。ハレの舞台を見ることができず、各通用口で警備していた団員たちが大喜びで叫ぶ声が一斉に上がった。抱き合う団員たち。目には涙があふれていた。

 この一瞬を夢にまで見た、長い道程のクライマックスである。一時は中止もやむなしと思えた「夕べ」であった。身を挺して最後までこの公演を陰で支えた団員、実行委員たちのほか、会場を埋め尽くした聴衆の熱い支えが、この公演復活の奇跡を可能にした。

 この2年後、団では『悪魔の飽食』の合唱作品化に思い至る。森村氏は、団からの要請を受けて16編にわたる長大な原詩を団に贈ってくださった。

 森村氏の原詩を携えて、池辺氏に初めてお会いしたのが84年2月22日。本公演のわずか8カ月前のこと。長大な原詩に15分ほどかけて目を通していただいた。

 「いい詩ですね」――読了後の第一声だった。超多忙を究める池辺氏から、誰でもが歌いやすい、いわばソング的な曲にしてはどうかという逆提案と「編詩」という言葉を投げかけられ、団の依頼に応えてくださった。

 あの日の池辺先生の「いい詩ですね」のひと言から早21年。オーケストラ版『悪魔の飽食』、ニュージーランド公演、全国縦断コンサート、そして七三一部隊の本拠地である中国公演にまで発展するとは、お互いに知る由もない出会いとなった。

第1回中国公演において、遼寧省・撫順市郊外の「平頂山遺骨館」で献花した森村誠一氏(右)と池辺晋一郎氏

 数年後には、アウシュビッツで、そして国連のあるニューヨークでの公演が、現在準備されつつある。世紀を超えて今や、日本国内はもとより世界に羽ばたく混声合唱組曲『悪魔の飽食』。

 日本人が犯した残虐な侵略の爪跡を加害国自らが隠ぺいしてしまうという歴史の変質を許さないために。戦争というものの悲惨さ、命の尊さとはかなさを告発し、再び過ちを繰り返さないために。私たち日本人がうたう理由(わけ)がここにある。

 そして、なによりも「生きるものの歌」として「日本人の良心の灯」を日本から世界の人々の心に点し続けていくことが、この曲が非凡さゆえにもつミッションである。

 「運命」というものが、人智を超えて天の命によって支配されているとするならば、世紀を超えて歩み続けるこの歌の「運命」は、叡智を結集した人間のたゆまぬ意志にのみ将来が支配されるのである。

私たちの「心」を伝えたい
                    中国公演団団長、作曲家・
池辺 晋一郎
                    日本作曲家協議会会長・指揮

 中国で、『悪魔の飽食』を演奏する。それは、私たち日本人に、すさまじい緊張を強いる行為だと言っていい。ドイツ人のオーケストラが、イスラエルでコンサートするようなものかもしれない。だが、私たちは、国家の「建前」と民間の「本音」は異なる、ということを実証するために、皆さんの前にいるのだと考えている。ここにいる私たちは、戦後60年を経た今、戦争を知らない世代が人口の多くを占め、平和を保つための努力の意味を理解しない人が増えていることを危惧する者たちだ。日本が、戦争をしない「憲法」を持つに至ったことを日々考え、それを誇りにしたいと願っている者たちだ。

 だから、私たちは中国で『悪魔の飽食』を歌う。これは、あの「七三一部隊」の記憶を超え、多くの日本の一般の人間の現在の心の、そしてこの星に本当の平和が永く保たれることを願う世界中の人々の気持ちの、代弁だと思う。私たちの先人の「罪」に連座しつつ、私たちの隣人に私たちの「心」を伝えたいと、ただ願うのみである。

中国公演に大きな意義
                                          中国日本友好協会

 混声合唱組曲『悪魔の飽食』の第2回中国公演が行われるにあたり、中国日本友好協会は、後援団体のひとつとして、ここに熱烈な歓迎の意を表します。

 混声合唱組曲『悪魔の飽食』は、旧日本軍の中国侵略の暴行をあばき、若い世代に正しい歴史認識を教育し、世界平和を重んじてそれを守り抜くことに対して、積極的な作用を及ぼすものです。

 世界反ファシズム戦争勝利60周年、及び抗日戦争勝利60周年にあたる今年、この『悪魔の飽食』第2回中国公演の開催には、きわめて大きな意義があります。それは必ずや、中国の観客たちの熱烈な歓迎を受け、中日友好関係の健全で安定的な発展のために、新たな貢献をされることでしょう。

 混声合唱組曲『悪魔の飽食』第2回中国公演の円満な成功を、心よりお祈りいたします。 2005年8月号より



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