西部大開発の拠点

   湖南省懐化市を行く

                      若虹

 
 湖南省懐化市を取材したのは昨年秋のことだった。北京では木々の葉が黄葉し、落ち葉となって、すっかり秋の気配を漂わせていた。しかし、列車に乗り湖南省へ入ると、車窓から見えたのは一面の緑……。なだらかな山すそには大小さまざまな水田が開かれ、山の斜面には柑橘樹が植えられて、黄金の果実がたわわに実っていた。枝先の果実が大きいので、樹木がかえって低く見えるほどだ。列車は世界自然遺産の張家界を過ぎて、さらに西へと向かった。起伏のある山並みは深緑に彩られ、山あいの河川は陽光に照らされて、キラキラと反射していた。(編集部)

 


   

       「列車が牽引した都市」

 懐化市は湖南省の西南部に位置し、西は貴州、南は広西チワン族自治区に隣接している。懐化市の東は中国の経済技術発達地区、西南は資源は豊富だが、経済がいささか立ち遅れた地区だ。国家の西部大開発の戦略において、懐化市はきわめて重要な位置にある。東部の経済技術が西南部に導入され、西南部の物資が東部に運ばれる、交通の要衝だからだ。

 私たちをずっと案内してくれた、ドライバーの呉文明さんが教えてくれた。人々は懐化市を「列車が牽引した都市」と呼んでいる。懐化市は昔、小さな町で、周辺の農村や町とさして変わりはなかった。1970年代に国がここの鉄道二本を建設して以来、懐化市は徐々に発展して高層ビルが林立する都市となった。呉さんが言う二本の鉄道とは、一本が私たちが利用した枝柳鉄道。湖北省の枝城から広西チワン族自治区柳州市まで、南北を走るもの。もう一本は、湖南省株洲市から湘潭市を経て貴州省貴陽市に至る湘黔(湖南―貴州)鉄道で、東西を横断するもの。地図を見ると明らかだが、枝柳鉄道と湘黔鉄道は懐化市で「十字型」に交わっている。

 地元の人によると、この他にもう一本、着工したばかりの渝懐鉄道があるという。重慶市から懐化市までをつなぐ鉄道で、その建設は中国「第十次五カ年計画」の重要プロジェクトの一つとなっている。懐化に暮らす人たちは鉄道に対し、特別な感情を抱いている。鉄道は懐化を交通の要衝としただけでなく、懐化の今後の発展にも大きな影響を与えるからだ。鉄道以外の交通としては、市内に数本の国道が走り、げん江六大支流の水路が貫く。船舶の通航総距離は1200百キロ余り。船はこの水路を使って、湖南省東北部の洞庭湖や長江へと向かうことができる。

 このように便利な交通と地理的位置にあって、懐化市はここ数年来、湖南、貴州、湖北、広西チワン族自治区、重慶の五つの省・直轄市・自治区の物流、情報伝達、科学技術交流の中心都市となっている。懐化ではすでに11年間連続で、湖南省西部地区の商品交易会を開催している。同地区の貿易を促進し、発展させるためのもので、私たちが懐化に着いた時、折りよく第11回交易会が懐化市靖州ミャオ族トン族自治県で行われていた。靖州自治県は、この交易会のために敷地8万2100平方メートルの総合卸売り市場を新設。市場には、農業副産物、かなもの・家電品・家具、生地・衣料百貨、建築・内装材料の四大卸売り区があった。交易会の開幕日には、会場に内外の人々が大勢集まり、むせ返っていた。交易会に参加した業者は、懐化市周辺以外では上海、浙江、広東、広西チワン族自治区、貴州、重慶など各地から集まっていたという。

        トン族村の風雨橋

 懐化市は面積2万7600平方キロ。人口481万人。そのうち少数民族は33%を占めており、漢族、トン族、ミャオ族、トゥチャ族など32の民族が居住する。多民族が共に暮らし、親睦を深め、共通のふるさとを築いている。ドライバーの呉さんは、素朴でまじめなトン族の男性で、1958年に鉄鋼工場で見習い工となり、後にドライバーに転身した。車を運転して30年余り。漢族の服を着こなし、トン族の言葉はあまり話さないが、その中にはやはりトン族の風貌がある。彼の話す習俗や歌の中に民族の誇りがうかがえ、私たちを感動させるのである。

 いくつかの県を取材して、トン族の風雨橋を度々見ることができた。それは一種のアーケード式の木造橋で、橋の上には屋根付きの廊下と楼閣がある。廊下の両側には、長いすが設けられており、通行人に雨よけと憩いの場を提供している。楼閣の軒は美しく装飾され、トン族のすぐれた建築芸術を十分に示している。山紫水明の地にあって、風雨橋と大自然が一体となり、すばらしい眺めである。

 ある地方では、風雨橋に雨よけ通路以外の新しい活用法もあった。近年来、生活が変化するにつれて考案されたものだ。懐化西部のワニ江県を取材した時のこと。私たちは、舞水河をまたぐ竜津風雨橋を目にした。

 竜津風雨橋は、明代万暦19年(1591年)の建設。以来400年余りにわたって湘黔道の要塞であり、商人や旅客の往来のルートとなっている。

 現地政府は1999年、竜津風雨橋の修復を決定した。風雨橋を歴史的な名勝として復活させ、観光資源を開発するためだ。何百人ものトン族職人が、一年がかりで原産の上質なスギを用い、釘を一本も使わない木造の風雨橋を建設した。橋は全長246・7メートル、幅は12・2メートル。屋根には濃紺の瑠璃瓦が用いられ、橋には七つの楼閣が造られた。楼閣の高さは18メートル。そこからは舞水河両岸の美しい景色を一望することができる。

 巨大な風雨橋に入ると、長廊の両側には一軒一軒、店が並んでいた。90軒以上はあるという。日用雑貨、衣料品、靴、帽子などが販売されていた。中には果物や軽食を売る店もある。往来は賑やかで、商売も盛んに行われていた。まるで商店街を歩いているかのようだ。地元の人の話によると、ここは近年、観光開発されたことで経済が発展し、人々の消費意識も高まった。風雨橋の修復は業者たちに大歓迎された。橋が修復されると、店舗のテナント契約はすべて成立した。

        山紫水明の新トン族村

 通道トン族自治県を取材した時、私たちは受け入れ側の好意で、黄土郷(村)のトン族文化村で民族の風情に触れることができた。

 村の入り口で、トン族の娘さんが酒の杯を捧げ持ち、私たちをせき止めた。このタケ酒を飲んで初めて、村に入れてもらえるのだった。トン族の来客歓迎の儀式だ。

 村は山ふところに抱かれ、山頂は木々が青々としていた。村の河川は澄み切っていて、空は青く澄んでいた。地元の人が「この村は森林保有率が72・3%。原始林と熱帯雨林が大部分を占めています。空気がきれいなので、水質も良好です」と教えてくれた。村の人たちは皆、木造の吊脚楼に住んでいた。トン族の伝統的な衣服を着ていて、子どもから老人までその顔には平和な暮らしぶりが見て取れる。

 温かなトン族の人々は、風雨橋の中で「合ツ」飯」を持ち寄り、私たちを歓待してくれた。木の板を一つひとつつなぎ合わせた長テーブルの上に、各家庭から持ち寄ったご馳走が並べられた。トン族の伝統料理・魚や肉の塩漬け、大根と唐辛子の酢漬け、また、鶏や魚の料理や野菜炒めなどもある。テーブルには各々、もち米酒(蒸留酒)が一杯ずつ置かれ、食前になると、客と主人が一緒になって、杯を上げ、手に手を取って、トン族の「敬酒歌」を歌い始めた。たとえ知らない者同士でも、微笑みや歌を交し合うのだ。トン族の娘さんと若者が何人かずつ客の前にやってきて、もち米酒を上げ、「敬酒歌」を歌いだした。もし「対歌」(歌垣)が返せなければ、酒を飲むしかない。もち米酒では酔わなかったが、私たちはすでにこの楽しい雰囲気に陶酔してしまった。

 「合ロウ飯」はトン族村の最も特徴的な接客方法だ。伝説によると、トン族の英雄・呉勉が、義勇軍を率いてトン族の村を通りかかり、村の長老の家に宿を借りた。村人はそれぞれ自宅へ呉勉を招きたがった。困ったところへ、ある聡明な娘が村の空地に長テーブルを置き、各家庭の料理を並べた。英雄を招く名誉が皆でわかち合えるという訳だ。これが継承されて、現在の「合ツ」飯」になったという。トン族の村では「合ツ」飯」でもてなすことは、トン族の最高の接客儀式となっている。

 取材してわかったのだが、黄土郷はかつて経済の立ち遅れた貧困地域だった。人々は出稼ぎや耕作、養殖に頼り、どうにか生計を維持していた。九五年以後、現地の政府は住民の生活を改善するために、トン族文化を中心とした観光業の推進を計画、これにより現地の経済発展を促そうとした。数年間にわたる建設と経営をへて、黄土郷のトン族文化村は、今や省では有名な「民族文化芸術の郷」となった。ここ数年来、日本やイギリス、中国国内および香港、台湾からの観光客が合わせて十万人以上にも及んでいる。

 かがり火を焚いた夕食会の席上、民族歌舞チームが様々な出し物を披露してくれた。その後、私たちは歌舞チームの二人の娘さんの家に泊まることになった。彼女たちは中学を卒業後、通常は家で働き、観光客があるとステージに参加する。毎回、数十元(1元は約14円)の収入があるという。彼女たちの家は太いスギの木で建てられた吊脚楼で、清潔感にあふれ、木の床や壁には光沢があり、美しいことこの上なかった。キッチンやトイレもすべて揃っていた。「黄土郷は絵に書いたような風景だ。空気は澄んで、家屋もこんなに清潔で……。ここに住むのが一番だ」と同行した仲間たちが、感嘆していた。観光開発は経済収入を得たばかりでなく、数々の情報を収集し豊かになるルートを切り開いた。トン族の村人は、市場の需要に基づいて、栽培農業を学んだ。現在、彼らは稲作や耕作の他に、山地でアブラツバキ、柑橘類、キウイフルーツなどを栽培している。村人たちは貧困から脱出し、豊かで満足した生活を送っている。

 懐化は、時間の都合で強行取材だったが、湖南西部の辺境の町とそこに暮らす人々が私たちに深い印象を残した。決して豊かではない土地だが、人々が一生懸命、生活を営んでいた。西部大開発はきっと、この中国の東西を結ぶ要衝にさらに大きな変化をもたらすだろう。その時に、再びこの地を訪れることを期待している。(2001年4月号より)