■生活走筆

愛は「贅沢品」か?

                                         黄秀芳
 

 2月14日は「聖バレンタイン・デー」。中国ではこの日になると決まって、バラの花とチョコレートが飛ぶように売れます。毎年そうなのですから、もはや慣例になったといってもいいでしょう。とくに興味深いのは、バレンタイン・デーの前日と当日はバラの値段が数倍に跳ね上がり、それが過ぎると暴落して投げ売りされること。まるで、情熱たっぷり愛を表現しなければならないこの日以外は、途端に愛が冷めてしまうかのようです。

 こうした状況からすると、愛の重さを推し量ることが、今やジョークと化したといえるでしょう。しかし、暮らしの中で毎日発生するニュースを集めてみると、愛は確かにその価値を下げたことに気付かされます。

 以前、性格が正反対の双子の姉妹と知り合いました。二人は別々の大学で学んでいましたが、クラスメート同士の恋愛について話が及ぶと、声をそろえてこういいました。「もしも卒業する時、同じ地区で仕事が探せなければ、別れるしかないわね。誰が好んで遠く離れて暮らすものですか。待ち続けるなんて青春の浪費じゃないの?」。

 「過去の日々は一体、どう考えればいいの?」私は理解に苦しんで、すかさず聞きました。すると「ああ、それは淋しい時にお互い慰め合っただけ。だから誰も損したわけじゃないわ」と彼女たちはあっさりと答えました。自分の未来のために愛を放棄してしまうケースは多いのですが、あっけらかんとした彼女たちの様子には、驚かざるを得ませんでした。

 偶然だったのですがある時、日本人の同僚とこれに関わる話をしたことがあります。彼女は笑いながら、日本の今の若い人たちは、恋愛をするのがあまり好きではないと話し出しました。なぜなら「すごく面倒で、すごく疲れるし、すごくしんどいからです」。いくつもの「すごく」に、私は驚きのあまり声を失い、深く考えさせられました。恋愛が怖いのなら、ほかになにか怖くないものがあるのでしょうか? 「それは愛が必要ないということ?」と私が聞くと、彼女は「別の人を見ていればいいのよ」といいます。別の人とは、トレンディー・ドラマの中のアイドルです。若者たちは何時間も費やして、アイドルが泣いたり、悲しんだり、喜んだりする姿を見ては、同じように感情移入している、与えることなく愛が得られ、それで少しもおかしいとは思わないのだといいます。

 私は古いことわざを思い出しました。「結婚は愛情の墓場である」。つまり愛情は、日々の生活の中で日増しに冷めてしまい、ついには死んでしまうというもの。しかし、現在ではそう悪くはいわれないはずです。結婚は「愛情の殺人者」の汚名を再び着せられることはありません。なぜなら現代人はほとんど恋愛を望まないのだから……。

 さらにひどいことには、愛情を嘲笑する始末です。アメリカの名門校・ハーバード大学では例年、映画『ある愛の詩』の観賞を新入生の必修課目としています。若い男女の純愛の深さをうたいあげた『ある愛の詩』は同校で実際にあった話に基づいて製作され、撮影された不朽の名作です。大学側はこの作品を誇りにしていました。しかし哀れなことに近年ではこの映画を上映後、館内にヒューヒューといったあざわらいが響くというのです。

 古来より人類の永久不変の感情が、なぜこのように「冷遇」されているのでしょう? 物質文明が発展し、生活は豊かになり、時代がますます進歩して、愛情が{い}要らなくなったというわけでもないだろうに。私たちを取り巻く世界を見渡せば、確かに便利になりました。それは感嘆するほどです。さまざまな家電製品やインスタント食品は、家事の憂いを解決してくれたし、尽きることない娯楽施設は、孤独な時間をつぶしてくれます。コンピューター、インターネット、テレビゲームなどは、閉ざされた独立王国を育て上げ、その領域を無限に拡張できるのです。この上さらに愛情を求めてどうするのか、とでもいうようです。私のある友達がいいました。「コンピューターと向き合うと、気がねもいらず、思いのままだ。だからガールフレンドと付き合った時、同じようにできるかどうかわからない……」

 「愛はその価値を失ったばかりでなく、死にかけている」。これは私の意見ではなく、だいぶ前にある人が断言した言葉です。また半年以上も前だったでしょうか、たまたま手にした雑誌の表紙にひどく驚かされました。女性のしなやかな手が、赤いバラの花をそっと握りつぶしています。その横には大見出しで「愛情の死」とありました。編集者は二十ページ近くの誌面を割いて、「愛情とは何か」「愛は持続性か、単発性か」などの誌上討論を組んでいました。この特集は、現代人の愛への自信のなさと悲観的観測を、十分に伝えるものでした。最も印象的だったのは「もはや世界に愛はない。あるのはただ欲望とカネだけだ」という一言。

 その実、人類は有史以来ずっと、欲望をいかに満たすかを追求してきました。愛情もさまざまな欲望の干渉に耐え忍んできたのです。しかし、現在のような過度な干渉ではなかったようです。高度な物質文明は疑いなく物欲を促しましたし、人は欲望を追い求めた結果、自らをエゴイストに変えてしまいました。だからエゴイストが無私無欲の愛情を求めたところで、気後れして、後ずさりしてしまうのです。

 どこで目にしたのか定かではありませんが、ある人が「愛とは一種の能力だ」といい、またある人が「愛情は一種の贅沢品だ」といっていました。私はどちらも正しいと思います。なぜなら愛とは捧げて、与えて、尽くすもの。またそうしてこそ、やっと愛の返答が得られるのです。いずれにしても、お金では買えないものなのです。(2001年2月号より)