■生活走筆
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わが子は「異端児」?
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黄秀芳 |
自分の娘のことで、悩んでいる友人がいます。最近は特にその心配が絶えないようです。というのも小学校卒業間近の娘さんが、授業中いつもぼんやりして、宿題もやってこない、と担任に注意されているからです。 私も知っていますが、個性豊かな頭のいい子なのです。想像力に長けていて、絵画や作文には飛び抜けた才能を発揮します。彼女の作品を見るたびに、感心するほどです。そんな個性的な子どもですから、系統的な学校教育は息苦しいのかもしれません。友人は遅れをとるまいと娘に英語の課外クラスを勧めましたが、「行きたいのならお母さんが行けば」と逆に言い負かされてしまいました。それでもひるまず「そんなことなら大学に入れませんよ」と言うと、「大学になんか行きたくない」と切り返されてしまったそうです。 友人の悩みは私にもよくわかります。私にも小学六年の娘がいるからです。友人と悩みのタネは異なるかもしれませんが、私の場合は娘がいい中学校に入れるか? いい高校、大学に入れるか? という心配で、時にはいらだちさえ覚えます。 そんなことを早々と心配しても仕方がないのですが、皆と同じように「いい中学、いい高校、いい大学に入れば、いい仕事が見つかり、いい暮らしができる」とどこかで信じているのです。このレールを踏み外して「大学に行かない」などと言われると、どこの親でもショックを受けるでしょう。「ボクは異端児だ」と宣言されたようなものです。 そんな「異端児」を代表する一人が、話題の少年・韓寒くんです。上海の高校一年生でしたが、学期末試験で七科目が不合格だったため、休学の勧告を受けてしまいました。これでは通常、大学入試に合格する見込みはありません。しかし文才に秀でた彼は、全国規模の作文コンテストで最優秀賞を獲得した上、長編小説『三重門』まで世に送り出しました。上海の某大学が、休学中の彼を聴講生として受け入れようとしましたが、あっさりと断られました。「大学には行きたくない」からだそうです。この「韓寒現象」は、中国で一大センセーションを巻き起こしました。でも私の一番の関心事は、彼の両親の考え方でした。予想通り衝撃を受けた彼の両親は、「韓寒はもう子どもではないから、構わないことにします」と半ばあきれ顔で、マスコミに語っていたのが印象的でした。 実際のところ、大学を卒業してもいい仕事が見つかるとは限らず、いい仕事に就いても、いい暮らしができるとは限らない。ましてや「いい暮らし」と「幸せ」が等しいわけではない――と、頭では理解しているのですが、それでも常識からはみ出すことができないのです。いつも宿題や勉強を強要するので、娘にとって私は、恐ろしい顔をした鬼のような母親なのかもしれません。時には口を尖らせ、泣きながら「六年生なんか大嫌い」とこぼします。また時には「もういいかげんにして! お母さん」と訴えることもあります。 娘は、自分の生活が楽しいとは思っていません。母親の私や学校の先生や社会がそうさせたのです。子どもへの過度のプレッシャーはよくないと誰もが知りながら、どうしてもその「原則」を打ち破ることができないのです。私はただ自分に言い聞かせています。「私は預言者ではない。輝かしい未来を娘に誓えないのだから、現実をしっかり見据えよう」と。 しかし新世紀を迎える前夜、あるテレビ番組を見た私は、心のバランスをすっかり崩してしまいました。人気のトークショー番組でした。司会者がある百歳の老婦人に聞きました。「二百歳まで長生きされたら、生活はどんな風に変わるでしょう?」。老婦人は笑いながら手を振り「そんなに長く生きられませんよ。でも生活は今より良くなるに決まっている」と答えました。司会者は満足して、老婦人の曾孫に同じ質問をしました。十代の子どもだから、想像力にあふれたユニークな答えが返るだろうと期待したのです。ところが、意外にも彼は自分の百年後の生活をこんな風に描きました。「朝起きて、歩くか自転車またはバスに乗って学校に行く。授業を受けて、家に帰って宿題をして。まあ今とあまり変わらないんじゃないの?」。その答えに皆、笑い出しました。もし彼の言った通りだとしたら、生活はきわめて無意味なものになってしまいます。 皆は笑っていましたが、私はひどく驚かされました。まだ悩みなどない頃だろうに、彼の目にうつる生活は、本当に授業や宿題だけなのか? 同じように時が流れ、同じように暮らす毎日なのか? 百年後も変わらずに? 未来に夢も希望もなければ、楽しみなんてあるのだろうか? そう考えると、急に悲哀を覚えたのです。(2001年4月号より) |