■生活走筆
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「車を買いましたか?」
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黄秀芳 |
最近の新聞に、おもしろい話が載っていました。広州のある男性が自家用車を買ったのですが、それ以来、かえって疲れがたまったというのです。原因は、交通渋滞のひどい広州では、駐車スペースが限られたことによります。彼が住むマンションの前の通りは大通りではなかったので、午後11時から午前7時までは、路上駐車が許可されていました。それで夜の11時までは車で出かけて時間をつぶし、朝7時前にはまた出発しなければなりませんでした。しかし個人経営者の彼は、仕事がなくても朝から出かけて、どうするつもりだったのでしょう? ただ外で朝食をとるよりほかなく、それが済めば手持ちぶさたになって、かえって疲労をためたというのです。 本来は、生活をより便利で快適、スピーディーにするために車を買うのであって、煩雑さを招くためではありません。もちろん車は、名誉と富とを誇示する効果もあるでしょう。それはまるで、乗り物のカゴと同じです。かつてカゴを抱える人はみな大金持ちでした。人夫を雇うくらいですから、財産があるわけです。雇い主と人夫の間には明らかな身分の差がありました。こうした歴史的な、あるいは意識的な背景から、現代っ子たちは、駐車スペースもないのに車を欲しがるようになったのです。 前に、ひどく感心させられた言葉に「手放せないのに、車を嫌う欧州人。持たない人が多いのに、車の好きな中国人」というのがありました。欧州の人々のことはよくわかりませんが、最後の一言にはまったく同感します。なぜなら私も、中国人が経験した歴史の、特徴的な一部分を知るからです。 1978年、改革・開放前のことです。計画経済がとられた当時は、一般的に所得は平等で、個人の消費財も生活用品に限られました。多くの人が「黒塗りのリムジンは公用車、我々は公共バスに乗るだけだ」というイメージを抱いていました。そのリムジンも厳密に、指導者の階級に従って配車されました。衣服も食べ物もみな同じだったので、門を閉ざして家の中にいると、その違いは誰にもわかりませんでした。貧しいのか、豊かなのか、街へ出たところで何の違いも見出せなかったのです。 ただ黒塗りのリムジンだけは、利用者が一部の特別な人だと容易に区別できました。配車かどうか、どんな車に乗っているかを見るだけで、その人の権力や影響力が判断できたのです。私が小学生から高校生のころは、同級生の親にはやはり身分や所得の差がありましたが、車で通う人を見たことがありませんでした。お金があっても車がなくて、買えない時代だったのです。車を持つことは、長いこと中国人の夢であり、憧れであり続けました。こうして配給制でなくなった今は、経済上の条件さえ許せば、まず先に車が欲しい時代となったのです。 外国人の友達にある時、ドキリとするような質問をされました。「なぜ、あなたたち中国人はよく『車を持っていますか』と聞くのですか?車の所有はそんなに重要なことですか?」と。つまり中国人はなぜそれほど利益や権力にはしるのか、という意味合いでした。しかし、もし彼が「中国人の車に対する特別な感情」を理解していれば、中国人のそうした問いは少しもおかしくないと思ったはずです。 昨年末、21の調査機構が共同で、中国22都市の住民を対象にした、自家用車の調査を行いました。その結果、自家用車の所有率は昨年末までに8・2%、2001年の購入予定率は4・8%を占めたそうです。購入予定率4・8%とは、自家用車89万台の増加で、640億元が消費されることを示しています。 これは人々の豊かさの表れの一つです。しかしその半面、車の購入がブームとなればなるほど、私はうすら寒い不安を覚えるのです。中国の著名な経済学者の呉敬銹教授は、かつて「車があらゆる人の歩行具(足)となるならば、北京は死の都市となるだろう」と語ったことがあります。彼が憂慮するのは、交通問題だけでなく、環境汚染の問題です。人間が耕地を使って道路建設を進めれば、車はますます農作物と土地を奪い合うことになります。自家用車を持つことは、人間の権利の一つですが、それならば十分な穀物を得ることは何なのでしょう? それも何物にも替えがたい人間の権利のはずです。 最近のはやりのあいさつは「車を買いましたか?」です。それもいいでしょう。でも本当はその前に、環境や食糧の問題を考えて、「もう食べましたか?」と聞くべきではないか、と思うのです。(2001年7月号より) |