■生活走筆
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表現するということ
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黄秀芳 |
上海で、昨年末に行われた第三回国際現代芸術展(隔年で開催)が世間をさわがせました。なぜなら、公立の上海美術館がはじめて主催した、国際的な現代アート展だったからです。公的な機関が、前衛的な芸術展を開いたことは「里程標」の意義をもつものでした。 開幕式では、美術館の責任者のひとりである張晴氏が感無量となり、泣きくずれてあいさつもできなくなるほどでした。この日のために彼がどれだけ心血を注いだのか、わかっていたので、彼の失態にはみな理解をよせました。 これと同時に行われていた他の七つほどの関連展覧会のなかに、友人が主催した展覧会「不協力方式」がありました。マスコミに紹介された友人の名前と顔写真を見るうちに、彼が93年にひそかに行ったパフォーマンス・アート展を思い出しました。場所は、市街区から遠く離れた村の古い倉庫で、来場者は彼の芸術家仲間だけ。ひっそりとした雰囲気のなかにも熱い情熱が感じられ、とても印象的でした。 政府が「支持せず、激励せず、組織せず」という姿勢だっただけに、当時はこうした個人的なアングラ活動が少なくなかったようです。なぜ、前衛的な芸術にこだわるのか友人にたずねると、つまりはこういうことでした。「自分の考えを表現したい、発言したい」 上海の張晴氏は、今展の写真集に文章をよせ、それと同じようなことを述べていました。「もしも中国に、国際的で合法的な現代芸術展がなければ、海外の芸術展に送る作品を審査し、選択する権利は、外国人の手にゆだねられてしまうだろう」と。 彼らがどうしても獲得したいのは、言論や表現の権利であるようです。条件が整い、チャンスに恵まれ、可能であるならだれでも表現したいのです。「言論の自由」は人間の本性であるため、基本的人権のひとつにも挙げられています。ごくふつうの人たちが、お酒を飲みながら、あるいは公園でくつろぎながら、内外の国家の大事を大声で論じあっているのをよく見かけます。北京の人はとくに議論が好きで、それは「侃爺」(おしゃべり)と呼ばれるほどです。 自由な表現や自己主張を許すことは、社会の寛容度と民主化の程度を示します。言論や表現の権利は、理想的な社会のシンボルのひとつです。しかし私は最近、あることに当惑し、言論や表現の権利をどう使うのかについて考えはじめています。 例えばパフォーマンスについてです。「人間と動物」をテーマにした展覧会があり、余極さんというアーティストが養鶏場から八百羽のオスのヒナを買ってきました。彼はパフォーマンスで、大きなガラスの容器にヒナを入れ、自分も裸でその中に座り、ヒナ三、四羽にキスをして窒息死させようとしたのです。しかしなんとも皮肉なことに、キスされたヒナは生き残り、ぎゅう詰めにされたために死んでしまったヒナは、少なくありませんでした。彼は何を表現したかったのでしょう? それはだれにもわかりませんが、観衆がそれを動物虐待だと指摘したのは確かなようです。 こうした荒唐無稽な表現には、不快感をおぼえます。表現する権利があれば、なんでもやっていいのでしょうか? ヒナを使った彼は、職業がアーティストだったからよかったのです。もしも独善的な命令をくだす教育者や権力者だったら、世の中が不幸に見舞われたに違いありません。 最近ちょうど、それに関わるできごとがありました。アメリカの大統領に就任したブッシュ氏は、言論の権利を生かして世界中の人々を驚かす発言をしていますが、なかでも、149の国と地域の代表が調印した地球温暖化防止のための『京都議定書』に対して、不支持と離脱を表明したのには驚かされました。それは結果として、人類の生活環境をおびやかし、破壊するものとなるでしょう。アメリカの大統領の発言力は強いので、歴代の大統領たちはずっとその発言に権威があると思いこんできたのです。しかし興味深いことには、それに抵抗する力がついに認められました。世界の人々が自分の言論権を生かして、いっせいに「アメリカを国連人権委員会から追い出そう」と主張したのです。 言論や表現の自由は、それ自体はすばらしいことですが、正当に、適度に使わなければならないでしょう。それは個人も、集団も、国家も同じことだと思います。 (2001年8月号より) |