■生活走筆

長征の心はどこへ……

                                         黄秀芳
 

 今年六月末、中国中央電視台で連続テレビドラマ『長征』(全二十四回)の放送がスタートしました。中国労農紅軍の戦略的な大移動である長征については、中学の歴史の授業で習ったのが始まりです。しかし当時はまだ幼くて、先生の話も概念的だったので、それは私にとって一種の概念でしかありませんでした。その後何年かが過ぎ、長征の全容や真実、長征にまつわる生き生きとしたエピソードを知ったとき、この史上類のない壮挙に頭の下がる思いがしたものです。

 長征――それはすでに前世紀の出来事となりました。1933年10月、国民党の蒋介石は、中央革命根拠地に対して大規模な五回目の包囲討伐を行いました。一年後、共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、2万5000華里(1万2500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の35年10月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。

 これは通常の遠征ではなく、天険要塞の突破でもありました。上空からは数十もの飛行機が偵察や爆撃を行い、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃してきました。日に一度は戦闘に遭いながらも、1日71華里を行軍しました。無数の隘路を行進し、十八の山脈(うち万年雪をいただく山が五つ)を越え、長江を含む24の大河を渡り、一面の大湿地帯を通過したのです。それは飢えや寒さ、病気や死などと隣り合わせでもありました。中央紅軍は出発時、8万人ほどでしたが、陝西省北部にたどり着いたのはわずか2万人足らずです。しかしなお、彼らは勝利を手にしたのです。目的地に到達したときも、紅軍の核心的な戦力は衰えていませんでした。そしてここから、さらに大きな発展をとげたのです。

 長征の壮挙は、信じられないような実話に満ちており、それが語り継がれました。長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは? それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。

 紅軍が悪路に陥ると、蒋介石は今度こそ必ず「共匪全滅」だと息巻いたのですが、一度もその願いがかなったことはありませんでした。最後の「紅軍一掃」の機会を逃したとき、蒋介石は彼の指揮官に言いました。「もしお前たちがあのような兵を率いていたら、私は懇願してお前たちに委員長を任せただろう!」と。

 紅軍を支えたものは何だったのか? なぜ敵の追撃や自然の猛威、死が迫っても、勇敢にまい進したのか? なぜ史上類のない厳しい行軍だったにもかかわらず、一貫して戦闘力と勇気、忠誠心と楽観主義を持ち得たのか? それは、強い信念を抱いていたからではないでしょうか。必ず政権を奪還するんだという強い渇望から、偉大な信念が生まれたのではないでしょうか。

 世代にはそれぞれの特色がある、と人は言います。第2次大戦期に生まれた世代は、勤労と奉仕の精神を重視する。続くベビーブーム期に生まれた世代は、勤労精神はあるが、奉仕の意味がわからない。その後の世代は、転職をすることや享楽的な生活に熱中する。たとえば、78年以降に生まれた「Why世代」と呼ばれる世代は、仕事とプライベートをキッパリと割り切り、何をするにも「損得を勘定する」と言われます。

 人間は、時代と環境の産物です。人の優劣をつけようとは思いませんが、私はやはりあの兵士たちのように高い志を持ち、献身的で勇敢な人に敬意を表します。信念を持つ人は幸せです。偉大な信念を持つ人は、どこへ行っても勝つでしょう。ただ今は、残念ながらこうした人がますます少なくなっているようです。 (2001年10月号より)