■生活走筆
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麗江の孤独
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黄秀芳 |
1996年、雲南省西北部の麗江ナーシー族自治州で、大地震が発生しました。それは現地に大きな被害をもたらしましたが、一方で750年前の建築様式を今にのこす「大研古鎮」(古城)の神秘のベールをとくことにもなりました。その後、あるイギリス人が3年もの歳月をかけて、古城を記録映画『雲の南』に収めました。映画がヨーロッパで上映されてから、そこが旅客でにぎわう観光名所となったのです。 麗江は私の憧れの地でした。何度も行こうと思いながらチャンスがなく、「まだ機が熟さないのだ」と自分に言い聞かせていました。ところが今年9月、麗江を訪ねる思いがけないチャンスに恵まれたのです。 麗江は、雨にけむっていました。灯りがともり始めたころ、ようやく古城へと向かいました。浮き立つ気持ちを抑えきれず、古城を見たとたんに感嘆の声をあげてしまったほどです。見るものすべてが新鮮に映り、時間がいくらあっても足りない思いでした。 こぢんまりとした古城の面積は約1・4平方キロ。八卦(易の八つの卦)を配したかのような町並みでした。川の流れが西北から東南へ、家並みにそってくねくねと町を貫いていました。幻想的な風景のなかを歩くと、目に入るのは川の流れと民家しかありません。もちろん橋も多く、石橋や木橋などそれは数え切れないほどでした。ほとんどの橋は、一本の丸太を両岸にかけ渡しただけの簡単なもので、地元の美しいお嬢さんも杖をついたお婆さんも、そこを通っていきました。 その川に、鮮やかなコントラストをなしているのが道でした。古城の道はすべて石だたみで、その敷石には、麗江の山地から採られた色とりどりの石が用いられていました。長年の人々の通行で磨きぬかれ、いつもつやつやと光り輝いているのです。狭い石だたみの両側は民家が軒をつらね、特徴的な赤褐色の門板(門となる数枚の板)を朝、取り外しては、夜、はめ込んでいました。その奥は四合院(庭を中心として東西南北に建物を配した伝統的な住宅)で、目隠しの塀である照壁や中庭があり、花や鳥が育てられ、人々が暮らしていました。 人々はそのルーツをたどれば、すべてナーシー族です。民族特有の言語や文字、宗教、信仰、文化習俗などを持ち、その象形文字は、外部の者にはなかなかわかりません。風俗も独特です。聞けば、ここの男たちの一生には、三つの「大事」があるそうです。それは家を建てること、花嫁を迎えること、ひなたぼっこをすること。それで彼らにはゆったりとした時間があって、茶をたしなんだり、鳥を飼ったり、文字を書いたり、詩を詠んだり、琴を弾いたりして、豊かなナーシー文化をつくりあげたのです。一方、女たちはただ懸命に働くだけでした。それは夜、ナーシー族の伝統音楽を聞けばわかります。演奏するのは――今も昔もほとんどが男の年長者たちなのです。 大都会で働き、心身ともに疲れきった人々にとっては、古城はいやしの場所です。川沿いの酒屋で休み、せせらぎを聞いたり、灯火のきらめきを眺めたりすれば、つりあがった目尻ももとどおりになるでしょう。しかし、こうした風景がやがてどうなるか、それは誰にもわかりません。今、明らかなのは、潮の満ち引きのように年中、観光客がやってきては、去っていくことです。古城は都会の色がますます濃くなっています。東の大通りから入ると目にするのは、道の両側に立ち並ぶレトロ風な土産物屋で、さらに新義街に入ると、軽食店やバーなどがズラリと並んでいました。たいそうなにぎわいで、そこではさまざまな言語が乱れ飛んでいました。麗江の工芸品を買おうと店主に話しかけたら、それはよそからやってきた人でした。ナーシー族の男たちが商売をしないことを、うっかり忘れていたのです。 そしてふと、シャングリラ(理想郷)のような場所にあった雲南省中甸霞給村の民宿「旺堆」を思い出しました。そこはもともと、チベットの伝統的な習慣で客を接待していたのですが、それがだんだんと変わってしまったのです。チベット風のふとんをホテル用のものに替え、ジュラルミンの窓わくに茶色のガラスをはめ込み、高級ホテルで使われるテーブルやイスを配したのです。しまいにはジャリを敷いていた質素な中庭に、外国から輸入した良質の芝生が植えられました。 ナーシー族の言葉で、「大研古鎮」は「イングゥドゥ」と発音されます。それは「江湾(江畔)の地」という意味で、ある人がそれを「伊孤独」と中国語に訳したそうで、実に感心しました。「伊」には「彼女」の意味があります。この訳からは、川のほとりにたたずむ美人の寂しげな姿が浮かびます。しかし、そのうち「伊孤独」も寂しさに耐えられなくなり、民宿・旺堆のようにすっかり変わってしまうのでしょうか?(終わり) |