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新中国建設の意気込み示す 建国門—復興門

 

長安街は東単と西単からそれぞれ東西に延び、東単は建国門に、西単は復興門へとつながっている。建国門から復興門までの長さは13.4キロだ。

明清時代の北京城には復興門と建国門という門は存在しなかった。新中国成立時、この2つの門の位置には、1940年代に城壁を取り壊して造った通行口があるだけだった。建国門から東単、西単から復興門に続く道路周辺には、平屋建ての民家が並ぶ胡同(横町)が一面に広がっていた。建国後、政府は市の東西の交通を通すため、長安街を拡張し、東単から建国門、西単から復興門までを貫通させることを決定した。

50年代当時は、世界は冷戦状態だったので、いつ起こるか分からない戦争に備え、政府は長安街の道幅を滑走路のサイズに広げた。そのため幅が100メートル以上のところが多く、世界最速の陸上選手でも長安街を横断するには、10秒以上かかるという冗談さえ生まれた。

長安街の拡張に対しては賛否両論があったが、このころ行われた工事は長安街の基本構造となり、「国家のメインストリート」としての姿勢と精神を樹立した。

長安通りの「大1路」

西単から復興門にかけての南側には、新素材を使った現代建築が建ち並ぶ
建国門の西南角に、「古観象台」がある。これは元(1206~1368年)の時代に初めて建てられたもので、明清時代の重要な天文観測台でもあった。現在、全国の重点保護文化財の1つに数えられる。

この観象台のいちばん高いところに登ると、長安街をはっきりと望むことができる。この長安街は観象台の北側を走る広い通りで、南北に走る東二環路と建国門の立体交差橋で交わる。東二環路はもともと、北京城の東の城壁があったところに敷かれた道路だ。長安街も東二環路も、北京の幹線道路であり、建国門の立体交差橋は北京の交通の中枢となっている。東西南北から集まった車は、毎日、川の流れのように走っている。

長安街は、つねにバスが往来している。1路(1号線)バスは、北京のバスの中でもっとも有名だ。長安街を東西に走る路線なので、市民たちから「大1路」という愛称で親しまれている。

馬慶双さん(50歳)は、1983年から25年もの間、ずっと1路バスを運転している。馬さんは「昔から1路バスは、北京市のバスの中でも大きかったです。長安街を走り、車両デザインも最新。加えて料金は1元と高額なので、バスとしては非常に目立つ存在でした。当時、1路バスの運転手になれるのは誇りでしたよ」と語る。  97年6月、北京市はバス専用レーンを開設した。開通祝賀セレモニーでは、専用レーンを走る最初の1路バスの運転を馬さんが務めた。「このことを思い出すと、今でも非常に誇りに思います」と振り返る。

馬さんが最初に運転したバスは、ディーゼル車で、性能があまりよくなかった。夏になると、運転席の周りは温度が50度以上になり、冬になると、車両の密封性がよくないので、オイルの煙が隙間からシューシューと入り込んできた。バスの運転手は、早朝から深夜までの勤務が続き、時間的にもきつい仕事だった。

復興門北側は金融街。国内外の銀行が集まっている
時代の流れとともに、北京市のバスも次第にモデルチェンジが行われる。その時も1路バスからであった。馬さんの話によれば、この25年の間に、車両は6回もモデルチェンジをしたそうだ。現在、車内の環境は以前より快適になり、運転手の仕事もそれほど重労働ではなくなった。とくにオリンピック開催前、北京市はバスの車両デザインを全面的に変更し、清潔で環境にやさしい新型のバスが導入された。「バスのデザインの変化から、社会の発展具合が窺えますよ。これはまた、オリンピックがもたらした変化とも言えますね」と馬さんは話す。

長年、1路バスを運転する馬さんにとって、長安街は特別な存在だ。馬さんによれば、長安街の視覚的変化がもっとも印象深く、「1990年代から、長安街の両側の高層ビルは、知らず知らずのうちに建ち並び、街の風景も美しく変化しました。また、以前、通勤時に見られた自転車の流れは、自動車に取って代わられましたね」と言う。

「改革・開放」以来、社会と経済が発展するにつれ、北京は人口も大幅に増加し、今では1000万人を超える大都市だ。市民の生活レベルの向上に伴い、マイカーも増えている。とりわけここ10年で、北京の自動車保有台数は急激に伸び、すでに300万台を突破した。北京の東西を結ぶ長安街は、現在、街の大動脈的存在となっている。

北京市交通管理局の統計によると、通勤ラッシュアワー時、長安街は1時間当たり7000台の車が流れるという。現在、長安街を走るバスは1路以外にも、十数本もの路線がある。

公共交通網を整備しバスの料金を値下げするという政府の方針により、今後はより多くの市民がバスを移動手段として利用するだろう。

長安街沿いの10大建築

950年代に建てられた10大建築物の1つ、北京駅

長安街の両側には、人目を引く2つのタイプの建築がある。1つは中国工商銀行、北京恒基中心(ヘンダーソンセンター)、東方広場などをはじめとする現代風な建築物。もう1つは人民大会堂、中国国家博物館、民族文化宮など、中国とロシア建築が融合したタイプだ。この新旧2タイプを比較すると非常におもしろいことが見えてくる。

長安街は国家政治のシンボル的な通りとして、両側にどのようなビルを建築するのかなど、繰り返し議論されてきた。通り沿いには1950年代の北京の「10大建築」があり、それらは人々の心に特別な位置を占めている。

新中国成立10周年の前の年である1958年、天安門広場と長安街の整備にともない、政府は多くの大型建築物に着手し、国慶節記念建築とすることにした。その計画の中には、中国歴史博物館(現在の国家博物館)や軍事博物館、民族文化宮などがある。

当時、中国の人々は新しい国の建設に情熱を傾けていた。建物の建設工事には、業者だけではなく、一般の市民も自発的に工事現場へ支援に駆けつけた。さらに地方からの建築チームの応援もあった。工事の面積は広大であったが、わずか10ヵ月の間に人民大会堂、軍事博物館などの大型建築物が相次いで完成し、新中国成立10周年のイベント直前には使用できるようになった。その後、これら1959年国慶節前に建った10の建築物を「10大建築」と呼んでいる。

50年代の10大建築の6つは、長安街沿いにあり、拡張された長安街とともに北京の新しい東西の軸となった。この通りは、北京城の南北に走る中軸線と天安門で交差し、街の重要な基本構造となっている。50年代のこれらの建築には、高度な芸術性と実用性が兼ね備わっており、北京の城壁のある古い街並みと相乗効果を成している。60年を経た現在も、これらの建物を鑑賞するとき、その文化的価値だけではなく、当時の新しい中国、新しい北京建設に燃える人々の情熱が伝わってくる。

都市の発展にしたがい、「80年代10大建築」「90年代10大建築」なども次々と選出された。オリンピックの開催を受けて、「鳥の巣」や「水立方」などのスタジアムが続々と建設され、北京の新建築は世界から注目されている。その中でも、長安街沿いで天安門広場の西側にある中国国家大劇院は、際立った存在だ。フランスの著名な建築家、ポール・アンドリュー氏が手がけた半球形の建物で、市民の生活文化を豊かにする一方、長安街に新しい時代の文化的情趣を添えた。

 

人民中国インターネット版 2009年3月1日

 

 

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