道が悪かった故郷の記憶
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山間部にある四川省寧南県では、県内24のすべての郷と郷が道路で結ばれている(新華社) |
遠出といえば、つらい思い出がたくさん浮かび上がってくる。筆者は広東省の客家人で、故郷の蕉嶺県は山は緑したたり川は水清らかで美しいところだが、山並みが連なり、起伏が激しく、一歩外に出ると山を登らなくてはならない。
1953年、当時11歳の筆者はある華僑の寄付によって建てられた山村の中学校で学んでいた。学校は家から8キロ離れている。土曜日に同級生と一緒に家に帰り、日曜日に米と野菜を背負って石板が敷かれた寂しい小道をたどって学校へ戻る情景が、今なお記憶に生々しくよみがえる。3年後県城の高校に入ってもまた8キロの山道を耐えなければならなかった。学校の食費を稼ぐために、日曜日は学校への帰りがけに竹などの山の産物を町に運ぶことも多かった。自分より重い荷物を担ぎながら一歩一歩山を登る情景は、今でも忘れがたい。
でこぼこした山道は歩きづらかった。十数人の屈強な若者たちが帆船のマストを造るための大きな杉の木や、長くて重い松材の船板を担ぎながらくねくねとした山道を歩く時、ちょっと気を抜くと事故が起り、深い谷川に落ちることさえある。ある時、松脂を町へ運んでいた農婦がちょっとした不注意で、家族が十数日も苦労して集めた2桶の松脂を地面に撒いて、痛恨の涙に暮れていた。
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山東省陵県の城関鎮の農民たちは、資金を集め、県城に通じる5本の道路を建設した。写真は自分たちで購入したトラクターで道路工事をする農民たち(新華社) | 1958年、村民の度重なる申し入れで、県政府が道路を作ることになり、石を爆破し山を拓き始めた。筆者も冬休みに帰省したおり村民と一緒に道路建設に加わった。しかし、その後財源不足で道路工事が中断し、道路には石がごろごろ散在して、いっそう歩きづらくなった。この全長33キロの道路は1968年にやっと全線開通した。
1959年、筆者は中山大学に入学、広州で学ぶことになった。ところが道も悪く車も遅いので、広州への495キロの旅は3昼夜もかかった。初日の午前中は、荷物を担いで県城へ徒歩で行く。午後、バスに乗って梅県(現在の梅州市)に着く。翌日の明け方、車に乗って出発し、途中灯塔鎮で泊まる。第3日の深夜にやっと広州に到着。しかし、この時間には中山大学への渡し船は既に終わり、受付の人もとっくに学校に戻っているため、みんな駅の長椅子で夜を明かすしかなかった。筆者と2人の同級生は近所の学校に潜り込み、卓球台の上で一夜を明らかした。
同郷の知り合いもこの話をすると当時を思い起こし、1950年中山大学に入学した時、まず蕉嶺県からバスで梅県を経て老隆に着き、そこから汽船で広州に進む。水路と陸路を使って道を急いでもまる4日かかった。
もう一つの不思議な例がある。中国外文局の元局長・段連城によると、1940年代、彼が雲南の昆明から北京の大学に行く時、一番便利なのはまずパスポートを取って、当時ベトナムを統治していたフランスのビザを申請し、フランス人が建設した鉄道に揺られてベトナム北部のハイフォンに行き、そこから船で広州へ、最後に列車に乗り換えて北京を目指したと言う。今は、昆明から北京まで飛行機の直行便は一日14便もある。
統計によると、1949年新中国が成立する前、中国の鉄道は1万キロ余り、自動車道路は約10万キロだった。路面が極めて悪かった上、ほとんどが北京、上海、南京、広州などの大都市に集中していた。広大な町や村では、南方は川や湖に近い水郷地区が水上交通を利用し、北方は金持ちが馬車や牛車で荷物や人を運び、一般の人々は、二輪貨車を引いたり、一輪車を押したり、荷物を担ぐか、かごを背負うか、苦しい旅を耐えなければならなかった。
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