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荒地が豊穣の地に「北大荒」開拓の歴史

10万軍人が開墾に従事

軍人から転職し、「北大荒」の開墾に大きな功績があったとして国から表彰された王志民さん

1954年3月、朝鮮半島の戦場から帰国した中国人民志願軍の鉄道兵第五師団の兵士たちは、「北大荒」の中にある黒竜江省の湯旺河で、森林鉄道の建設に従事した。時の鉄道兵団司令官、王震将軍(注)がここを視察に来た。かつて紅軍の第二方面軍を率いて長征に参加した将軍は、1941年から1944年にかけて、359旅団を率いて陝西省延安市の南東部に広がる南泥湾で、荒地を開墾し、作物を植え、陝西省北部の抗日戦争の根拠地が厳しい時期を乗り越えるのを支える功績を立てた。彼は黒い土の塊を指でもみながら「なんと肥えた土だろう。南泥湾のよりもずっといいよ」と言った。

ちょうどそのころ、多くの鉄道兵が退役年齢を迎えており、再就職が必要だった。そこで王将軍は、退役した鉄道兵団の将兵を動員して、機械化された農場を建設し、荒地を開拓して食糧を生産させようとした。

調査、測量を行ったあと、1955年の元旦、黒竜江省の虎林県西崗に、第一号の退役鉄道兵による農場がつくられた。農場の名前は鉄道兵の部隊の番号をとって「850農場」と命名された。退役軍人たちは荒地の上に草葺きの泥で造った家を建て、14万4000ムーの荒地を開墾し、種をまいた。そしてその年に、食糧の自給ができただけでなく、利益を上げることもできた。

こうした試みが成功した後、王将軍は中央政府に「北大荒」の大規模開発を提案し、承認を得た。1956年に王将軍は、鉄道兵団司令官兼中央政府農墾部部長として、黒竜江省密山県に鉄道兵農墾局を設立した。同時に、鉄道兵八個師団から復員・転職した1万7000以上の将兵が、南方の各地から「北大荒」に来て、「852」「853」など十数カ所の農場を相次いで設立した。「北大荒」の荒涼とした荒原に、トラクターのエンジン音や労働の掛け声、歌声が響き渡った。

「852農場」に、当時、鉄道兵でここに入植した葉剣青さんは、いま80歳を超している。数千里を「転戦」してこの「北大荒」にやって来たが、当時を振り返って葉さんはこう言う。

1950年代、「北大荒」開発が始まったばかりのころ、休憩のとき、掘っ建て小屋の前で本を読んだり、将棋を打ったりして楽しむ退役軍人たち

「厳しかったよ。マイナス四十数度の厳寒の中、小さな掘っ建て小屋で寝ると、寒くて全然眠れなかった。それともあえて眠らなかったと言えるかもしれない。眠ってから二度と目覚めることがなかった兵隊もいたからね。5人が布団を重ねて体にかぶせ、くっついて互いに暖めあって寝たものだ……」

しかし、楽観主義と奉仕の精神によって、入植した「大軍」は闘志をたぎらせて荒地を開墾した。「朝は3時半に起き、夜は満天の星が出てから帰る。凍てついたマントーをかじり、雪入りのスープで飯を食べた。誰もやったことのない道を歩むのだから、幾多の困難があろうとも恐れなかった。人民のために苦労しているのだから、苦の中に楽があった」と葉さんは言う。「国と人民は食糧が必要だから、『北大荒』という穀倉を開発する必要があった。当時の『北大荒』はなにもなかったが、だからこそ我々をそこへ行かせたと思う」

1958年、陸、海、空軍の転職軍人8万1000人と、随行の家族2万人を加えた約10万人が、列車や車で、広東や四川、雲南、貴州、江蘇、上海など各省市から「北大荒」に駆けつけた。それは中国の開墾史上、もっとも壮観なものであった。

「852農場」の自宅の菜園でトマトやサヤインゲンの世話をしている王志民さんは、1958年にここにきた軍人の入植者の一人である。動員令によって、彼と千人余りの戦友は、大連の海軍部隊に別れを告げ、ここ密山県にやってきた。

「あの春は雨ばかり降っていたな。氷が解けたばかりの道路は、味噌ダルを踏むようにぬかるんで、開墾地点までゆくのにとても苦しめられたよ」と、王さんは当時を振り返る。

5月のある日、彼は駅前の広場で、王将軍が、密山県の県城に留まっている二万人余りの転職兵士たちにこう言うのを聞いた。

「我々がここに来た目的はただ一つ。『北大荒』を開拓することだ。天の神が雨を降らし、道は泥水につかり、確かに歩きにくい。だが、紅軍は、こうしたぬかるんだ草原を走破したからこそ、鉄鋼のような軍隊になることができたのだ。明日、我々は出発するぞ。車があろうとなかろうと、なんとしても行くのだ。どんな困難があろうとも、我々の進軍を止めることはできない」

次の日の朝、王さんらは荷物を背負い、馬車に乗って、ぬかるんだ農道を二日間進み、やっと「852農場」にたどり着いた。先に入植していた鉄道兵の建てた掘っ建て小屋に入ると、部屋の両側に木の板で作ったベッドがあり、その上にむしろが敷かれていた。手で触るとじとじとしていた。

5月は開墾と種まきの季節。先輩の指導で、王さんたちはトラクターが耕した畝の上に種をまき、足で踏んで土を固めた。荒地にはアブやブヨがいっぱいいて、人を追いかけて来て刺す。追い払っても、追い払っても、群れとなって襲ってくるのだった。

(注)王震将軍は後に中日友好協会の名誉会長をつとめた。(編集部)

 

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