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2006年1月14日、胡錦濤国家主席(右)はアモイに来て、呉進忠さん(左)らアモイの台湾商人と親しく話し合った(写真提供・アモイ台湾商人企業協会) |
1980年代末までは、中国大陸にやってくる台湾の商人や企業は少なかった。しかし今は、「百万の台湾商人が海峡を渡る」と言われるほどになった。海峡両岸の貿易に従事するか、直接、実業に投資するかを問わず、台湾商人たちは意気盛んだ。彼らの姿はすでに大陸の沿海部のどこでも見られるし、次第に内陸部へと進出している。大陸での台湾商人の創業の歴史の中から、海峡両岸関係の変遷を見て取ることができる。また、未来に対する台湾商人の願いの中に、両岸の発展の前途を感じることができる。
最初にやって来た台湾の果物商
福建省アモイ市の商業地区である廈禾路の高層ビルの谷間に、「温先生コーヒー」という小さな店がある。柔らかな夕日がガラスのドアから射し込み、店内の棚にはコーヒー豆が入っているガラス瓶が、キラキラと輝いている。
カウンターの後ろで、店主の温仁得さんが悠然と、お気に入りのコーヒーを入れている。年のころ中年の温さんは、穏やかな感じの人だ。とくに彼が上機嫌でコーヒーについて薀蓄を傾けるとき、この人が最初に大陸にやって来て果物を商った台湾の商人であるとは誰も思わないだろう。
2004年、大陸は台湾と、台湾産の果物を大陸の市場に開放することについて協議を始めた。一年余りの協議のすえ、2005年8月、大陸は台湾産の果物に対し関税ゼロを実施した。その後、大陸側は、台湾の果物商に対し、店舗の家賃を免除したり、果物一トン当たり千元の運送費を補助したり、冷凍倉庫の使用料を無料にしたりするなどの優遇政策を次々に打ち出した。台湾の果物商たちは、こうした魅力的な商売のチャンスを前にして勇み立った。そして温さんは2005年末、率先してアモイにやってきたのだった。
「実は私は、果物のことはあまりわからなかったのです。しかし当時、海峡両岸では果物の貿易は行われていませんでしたので、私は勇気をもって第一歩を踏み出さなければならないと思ったのです」と温さんは言う。
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大陸で催された農産物の展示即売会で、台湾産の果物を売る温仁得さん(左から2人目)(写真提供・温仁得) |
温さんに続いて約20の台湾の果物商が相次いで大陸にやって来た。彼らが持ってきた台湾産の果物は、大陸の大都市のスーパーに置かれ、珍しもの好きの客の目をひきつけ、当時のニュース報道の焦点の一つとなった。
最初のうちは賞賛の声が多く、得意となっていた台湾の果物商たちだったが、間もなく、彼らが持ってきた台湾産の果物が、掛け声ばかりで売れないことに気づいた。温さんはこう回顧する。
「当時、台湾から持ってきた果物は最高級品でした。でも大陸の客にはなじみがない。例えばシャカトウは、熟れると表皮が黒くなります。もっとも美味しいブンタンは、干からびて萎びたように見えます。外見が悪いので台湾産の果物に手を出す大陸のお客さんはあまりいませんでした。そこで私は仕方なく、お客さんの前で果物を切って、食べてみてくださいと勧めたものです」
2006年には、一部の果物商は台湾に撤退していった。しかし同じように損をした温さんは、引き続き商売を続ける道を選んだ。彼は、自分がアモイに来て台湾産の果物を商うのは、商売のためだけではなく、両岸の経済・貿易の交流を促進するという使命があるからだ、と考えていた。
だからその後も温さんは、さらに積極的に台湾産の果物を販売した。大陸各地で催される農産物の展示即売会には、いつも彼の姿があった。2007年7月、湖北省武漢市で催された「台湾ウィーク」で、温さんは4日間で300箱の果物を売ることができた。彼はこれでやっと一息ついた。
さらに彼は、農業の専門家を連れて吉林省へ行き、バナナの熟成促進技術を教えた。こうして、台湾産果物の品質がよいことや台湾の進んだ果物栽培技術を、ますます多くの人が理解するようになった。
2001年から、アモイと金門島、馬祖島に限定して往来を認める「小三通」と呼ばれる政策が始まったが、この「小三通」で有利な場所にあるアモイは、2008年まで、大陸で最大の台湾産果物の集散地となった。温さんの果物の商売にもやっと曙光が射してきたが、新たな問題もすぐに起こって来た。
昨年、台湾から大陸に輸入された果物は4080トンに過ぎない。これは北京の果物消費量の2日分にも満たない。しかも台湾産の果物は価格が、大陸産の同種の果物に比べ50%近く高い。大陸の人々の目には、台湾産の果物は「貴重で高価なもの」に映り、いつも食べるというわけにはいかないのだ。
そこで温さんは、さまざまな果物を組み合わせて贈答用の篭に入れ、美しくて高級な、そして健康によい贈答品シリーズを市場に売り出した。その平均販売価格を普通の人が買える百元余りに設定したから、たちまち消費者に受け入れられた。
台湾産の果物の商売はこれからどうなるのだろうか。温さんはきわめて楽観的に見ている。
「現在、台湾以外では大陸が台湾産果物の最大の消費市場です。しかも大陸の需要はますます大きくなる。両岸関係が絶えず改善され、相互の交流が発展するのにともなって、台湾産の果物はすでに大陸で栽培され始め、台湾の農業技術も大陸に普及しつつあります。私は、今年は台湾産の果物が大陸全体に広まり、花開く年になると思います」
毎年10月から翌年の3月までは、台湾産の果物の生産・販売はシーズンを迎える。それ以外の7カ月のシーズンオフの期間、温さんの目は彼がよく知っているコーヒーに向けられる。米国で17年間暮らした温さんは、コーヒーにとても詳しく、アモイに定住した今では、ここに4軒のコーヒー店を開いている。果物の商売をしないときには、店で客とコーヒーについて雑談する。温さんにとって大陸での暮らしは、台湾にいたときと同じように気ままで、毎日、彼は果物とコーヒーの香りに浸って暮らしている。
20年前の賢明な選択
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アモイの台湾産果物の販売・集散センター |
「私はここでずっと商売をしたい。20年前、私はこう考えてアモイへ来たのです」。来明工業(廈門)有限公司の呉進忠総経理(58歳)はこう言った。
1980年代、台湾では工業の発展によって土地と労働コストが絶えず値上がりした。そのため台湾の経営者の間で、東南アジアへ出るか、それとも大陸へ向かうか、投資ブームが巻き起こった。メガネ製造業を営んでいた呉さんは、決然と大陸への投資を選んだ。
「家は台南にありますが、原籍は福建省です。アモイに来て投資することは、文化や言葉、気候、生活習慣の面で、私には故郷を離れるという感覚はありません」
1989年7月、呉さんは300万ドルを投資して、アモイに、大陸での第一号のメガネ製造企業を設立した。当時、投資環境は必ずしもよくはなかった。工場の周りは雑草が生い茂る荒地だったし、大陸のメガネ製造の関連産業は未発達で、生産に必要な多くの部品は輸入しなければならなかった。
しかし、こうした困難があっても、アモイに残るという呉さんの決心は動かなかった。それどころか彼は、ここで長期的に商売をしようと決意を固めた。
「私は当時、大陸と台湾の直接通航が遠からず実現すると予感していました。もしその日が来たら、台湾にもっとも近いアモイは、とりわけ交通の便に恵まれる。それは私の企業の発展にとって大きな助けにもなるに違いありません。今から見れば、私の判断は正しかったのです」と呉さんは笑いながら言った。
投資してから生産が始まるまでに一年もかからなかった。経営者である呉さんの自信と見識もさることながら、台湾の企業家に対するアモイ市政府の優遇政策が大きな支えとなった。アモイでは、台湾企業は、生産設備や原材料の輸入税が免除され、企業所得税と借地料も軽減された。こうした措置によって、台湾企業の投資は順調に始まった。
2003年、中国南部では電力の供給が足りなくなった。アモイ市政府は台湾企業の生産を確保するため、毎月、台湾企業には特別に、3万キロワットの電力を供給した。
昨年末から始まった世界的な金融危機の勃発によって、呉さんのような輸出型の台湾企業は影響を蒙った。そこでアモイ市政府はさらに一部の税金を免除し、企業の拡大・発展を助け、台湾企業に困難を乗り越える勇気を与えた。呉さんは「政府はつねに私たちの発展に配慮してくれ、心から感謝しています」としみじみ言うのである。
呉さんにとって、2006年1月14日は、生涯忘れられぬ日となった。中国の胡錦濤国家主席がアモイに来て、現地の台湾企業の代表たちと親しく会見したのだ。胡主席は呉さんの手を握りながら「台南の人々によろしくお伝えください。みなさんがたびたび大陸へ来るのを歓迎します」と穏やかに語りかけた。これに呉さんは温かいものを感じた。
「台湾企業や台湾同胞に対する胡主席の態度に、私たちは光栄だと感じただけではなく、大いに鼓舞され、投資を拡大する自信を強くしました」と呉さんは言っている。
呉さんがアモイに来てから20年が過ぎた。アモイでの呉さんの企業は、最初の一社から三社に発展した。商品の種類もメガネから、日本の友人と協力して携帯電話のキーまで生産するようになった。投資総額も300万ドルから3830万ドルに増加した。彼に率いられて、台湾のメガネメーカーがほとんどアモイに進出し、アモイのメガネ業界は次第に、一つの完全な産業チェーンを形成しつつある。またサングラスの輸出では、世界でトップになった。
こうした事業の成功に対して、呉さんは謙虚にこう言う。「両岸関係が日増しに良くなる状況の下では、実力があり、正規に経営しさえすれば、大陸で台湾企業は必ず、かなりの発展を遂げることができると思います」
現在、空路の直行便の開通によって、呉さんは以前のように2日間がかりで、香港を経由して台南とアモイを往復する必要がなくなった。片道の時間が4時間以内に縮まった。だから朝、アモイで仕事をし、夜は台南に戻って家族と団欒することができるようになった。「私は20年前に賢明な選択をしたと喜んでいます。これからも、両岸の融合がさらに進むよう、さらに何かをしたいと思っています」と呉さんは言うのである。(沈暁寧=文 馮進=写真)
人民中国インターネット版 2009年6月
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