文=丘桓興 金田直次郎 写真=馮進
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赤水河畔に位置する、長い歳月を経た塩商人の屋敷 |
| 渾渓口から紅運大道に沿って西へ行けば、「月亮台」と呼ばれる、かつて塩輸送で使用された埠頭がある。貴州省は塩の産地ではないため、地元で消費されている食塩は、すべて四川省から輸送されたものだ。昔は交通が不便で、荷馬に載せて運んだため輸送量も少なく、塩の値段が非常に高かった。そのため、「斗米換斤塩」(1斗の米で1斤=約500グラム=の塩を交換する)という言葉が伝われていた。
明の時代に、当時の政府が川底をさらったおかげで、赤水河は四川省の塩を貴州省に運ぶ四つの水路の一つとなった。土城一帯は川の幅が広くて流れは緩やかという地理的な条件に恵まれていたため、土城は重要な塩輸送の港町と商品の集散地となり、各地から大勢の商人が集まってきた。全盛期を迎えると、土城は塩商店だけで十数軒も抱え、さらに日用雑貨店や旅館、レストラン、銭荘(昔の私営金融機関)、劇場などもあり、多種多様な店舗が立ち並ぶ繁栄した町となった。見渡す限りの塩の輸送船が場所を争うかのように停泊している埠頭で、夕暮れ時に人々が商品を片付けている
しかしながら、塩を船から埠頭へ、そして倉庫へ運ぶのはすべて手作業だ。それを運送する人のことを「塩夫」と呼ぶ。彼らは塩の塊が入った竹かごを背負い、埠頭から倉庫までの石段を懸命に登る。重い塩を背負って運び続けていくうちに、石段の角が削れて丸くなってしまっただけでなく、塩商店と倉庫の石壁も侵食された。なぜなら、「塩夫」は塩を背負っている時に、「背杵」という棒を手にしている。運送途中で疲れた時には、「背杵」をかごの下に立てるだけで、かごを下ろすことなく立ったまま壁に寄りかかって休憩することができる。しかし、塩の塊が壁に触れて、付着した塩粒が少しずつ石壁を侵食し、いつの間にか壁がでこぼこになってしまったのだ。
金持ちも節約した貴重品
旧市街の北側には、その昔「張」という人が経営していた大きな塩商店があった。張氏は赤水河沿岸の各埠頭で塩商店と輸送の中継地を設けたことにより、赤水河流域における塩の流通をほぼ独占し、暴利をむさぼっていた。それゆえ人々から「張百万」と呼ばれていた。彼の持っていた華麗で立派な店舗は現在、土城塩運文化陳列館として地元独自の「塩文化」を展示している。
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当時の塩販売用の塩買付許可証と身分証明書 |
四川省で生産される塩は、見た目が石に似ているため、俗に「坨塩」と言われた。昔は塩が非常に高価で、貧しい人は食べられなかった。お金持ちでさえ、買ってきた「坨塩」を節約しながら食べた。普段は塩の塊を糸でつるしているが、料理をする時には、それをおかずに少しつけたり、またスープの中にくぐらせて、すぐに取り出し、再びつるすのだ。それゆえ、「塩つるし」「塩のしゃぶしゃぶ」「塩入浴」と言われている。面白いことに、一部のレストランやお金持ちの家では、つるした塩の塊が大きすぎて、手で提げるにはあまりにも重すぎるため、かまどの上で塩の塊を上げたり下げたりするための滑車装置を設けることもあった。そうしていつでも気軽に「塩入浴」ができるようになった。
「塩夫」たちは塩の運送に苦労していたが、貧しさゆえに塩を買うことができなかった。それゆえ、彼らはかごの底に稲わらを敷き、運送中にかごの中に落ちた塩粒を稲わらで拾い、それを家に持ち帰ってから煮込んで塩を抽出するのだった。しかし、このことが塩商人に知られてしまった後、「塩夫」たちは毎日仕事を終えたなら、かごの中に残った塩粒をきれいに払い落とさないと帰宅できなくなった。そこで彼らは新たな方法を見いだした。継ぎの当てた服を着て、塩粒が服に付着するようにし、家に帰ったら服を脱ぎ、それを煮込んで塩を抽出するのだった。
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土城の町並み |
土城の街道で買い物をする村民 |
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