四川省から木造船で輸送
塩運文化陳列館のすぐ隣には、土城地域の船団の船頭が住んでいた豪邸がある。まっすぐに伸びた柱、アーチ型の表門また屋根に飾り付けた幾何学模様など、これら西洋風の建築様式と、屋内の天井、中庭、「穿斗式」の木造家屋、木製の格子窓そして礎石に刻まれたシカ、如意などのめでたい図案といった中国の伝統的な建築文化を融合したものだ。
この豪邸は現在「赤水河航運歴史文化博物館」になり、展示されている当時の品々や写真などの資料を通じて、かつての赤水河流域の珍しい船団文化を知ることができる。
|
|
当時の船頭が住んでいた「中洋折衷」の豪邸 |
当時から伝わる船団の屋敷 |
四川省から赤水河を経由して貴州省へ塩や荷物を運ぶ際、川の流れに逆らって船を進めなければならない。昔の木造船にはモーターやスクリューなどの装備はなく、竹竿とかいだけで航行していたので、非常につらいものだった。特に流れの急な浅瀬を航行する際には、船乗りたちが岸からロープで船を引いて行かなければならなかった。
引き船の時には、少なくとも二つの船が同時に航行しなければいけない。流れの急な浅瀬に近づくと、この二つの船の船乗りたちが皆協力して、まず前の船を引き、そして後ろの船を引くのだ。引き船の際に先頭に立つ船乗りは「辺高」と呼ばれ、背が高くて力も強く、経験が豊かなリーダーだ。後ろの船乗りたちは「辺高」の指示したコースや歩調、テンポに従い船を引くのだ。「辺高」のすぐ後ろに立つ二番目の船乗りは「二辺」と呼ばれ、引き船の時にかじ取りからジェスチャーや掛け声を通して指令を受け、その指令を「辺高」に伝える役だ。そして、「二辺」は引き船の際に船唄の合唱をリードし、テンポの良いリズムを作って引き船の足並みを揃えると同時に、船乗りたちの疲労の解消にもなっている。
|
|
土城にはかつて塩商店が十数軒もあったが、清朝末期に建てられたこの塩商店は、赤水河一帯で評判が高かった |
当時の塩商人が住んでいた屋敷 |
赤水河の航路が狭いところで、二艘の船が行き交う場合、衝突事故を避けるために、上り船はとりあえず岸に寄って、下り船に道を譲らなければいけない。しかし、流れの急な浅瀬では、船が行き交ってはいけない。そこで、かじ取りと船乗りたちに向かい側から船が来るかどうかを知らせるために、流れの急な浅瀬の両端に航路標識を設けた。浅瀬の上流側にある標識棒上に、もし下方向に白い矢印が掲げられている場合、上流から下りの船がやって来ることを表し、下流からの上りの船は、岸に寄ってその間は停止しなければならない。浅瀬の下流側にある標識棒上に、角が上向きの三角印が二つ掲げられている場合、下流から上り船がやって来ることを示し、上流からの下りの船は岸に寄ってその間は停止しなければならない。このように航路標識と航行ルールに従うことによって、航行上の安全を確保するのだ。
赤水河は浅瀬が多く流れも急なので、航行の際には至る所に危険が隠れている。このため、昔は船団の中で、さまざまな行為がタブーとされてきた。例えば、船の中で顔を洗ってはいけない。なぜなら、頭や顔が水に濡れることが、おぼれることの前兆と見なされており、船乗りをおびえさせるためだ。そのほか、新しい船が進水する時、また遠くまで出帆する時には、「鎮江菩薩」のご加護を祈るため、かじ取りがおんどりを殺して、その血がついた羽を船首、かじ、帆柱そして舷側に貼り付けなければならなかった。船室の底部に隠れているネズミは「管事」と見なされ、神様のように崇められる。航行時にネズミが岸に逃げたり、川に落ちたりするなら、それは大きな災難がふりかかってくる前触れとみなされる。その時、船頭はすぐに船を停泊するよう命じて数日ほど休航し、船首で雄鳥を殺し、香を焚いて「鎮江菩薩」を祭った後に、再び出帆するのだ。
|
|
トランプを楽しみながらくつろいでいるお年寄りたち |
「紅軍幼稚園」と名付けられた土城の幼稚園 |
新中国が成立した後、政府は河道を整備し、木造船はモーターやスクリューなどを装備するようになり、一部の流れの急な浅瀬ではキャプスタンウインチによって船を引くマシンを設置したことによって、引き船を減らすことができ、また航行の安全性も向上した。
人民中国インターネット版 2012年5月
美酒の水と女紅軍の記憶──貴州省習水県を尋ねて(上)
|