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蘆山地震に活きた「汶川」

沈暁寧=文

4月20日、四川省雅安市蘆山県でマグニチュード7.0の地震が発生し、大きな被害を受けた。この情報は人々に、五年前に同じく春から夏への移り変わりの時期に発生した汶川大地震を想起させた。

当時汶川では、この災害で大きな被害を受け、肉親を失った人が相次いだが、中国人は、互いに助け合い、いたわり合う強い姿を世界に見せた。今、汶川からわずか280㌔のところにある蘆山で、5年前の感動的な場面が繰り返された。しかし、今回のほうがより理性的で秩序だったものだったといえよう。

繰り返されるドラマ

汶川から蘆山へ、同じような災難が二つの異なる地に降りかかった。5年前、中国人の互いに助け合い、協力し合って難関を乗り越える強さを、汶川が世界に知らしめた。今、それと同じ強さが、蘆山の廃墟と化した土地の上に、一つひとつの感動的な物語を生み出している。

崩れた家屋の中で、37歳の母親が自分の身をもって、崩れかかってくるレンガから子どもを守った。母親は亡くなったものの、生きるチャンスを8歳の息子に残したのである。

テントの中の仮設病院の前で、一人の男性がけがをした父親を抱きかかえて治療の順番を一時間も立って待ち続けた。それでもこの男性は、「大丈夫、疲れてなんかいないよ」と言った。

村人の楊善兵さん一家4人は、崩れた家のがれきの中に埋もれてしまったが、20人余りの隣人たちが九時間かけて、彼らの両手で一家の救出に成功した。

姜雲芳さん(60)は、壊れた自宅の中から保存しておいた米を持ち出し、道端で粥をつくり、自分では一口も食べずに、通りかかった被災者にふるまった。

地震当日、汶川の数十台のタクシーが、水やインスタント食品を満載し、蘆山の被災地へ救援に赴いた。自分たちには雅安の人たちの気持ちがよく分かる。5年前のあの時、自分たちもこのように外から救援が来るのを待ち望んでいたと、運転手たちは語った。

地震後、雅安や成都、ひいてははるか遠くの武漢の街角で、無償献血に応じる人たちの長蛇の列が見られた。中国各地で被災地のために祈祷が行われ、励ましのろうそくが再び灯された。

冷静な災害対応

蘆山地震の発生後、習近平国家主席は直ちに、「生命の救出を第一任務とせよ」との重要な指示を出した。中央各部門は迅速に緊急措置をとり、被災地に赴いた。わずか七時間で第一弾の救援物資が被災地に到着し、直ちに使用が開始された。

八時間後、李克強国務院総理が蘆山の被災地に現れ、災害状況の視察、救援活動の指揮、人々の慰問を始めた。この時、七千五百人近い解放軍が、被災地各地で救援道路の開通や生存者の捜索・救援活動を開始していた。続けて数万人の解放軍や武装警察、医療スタッフが四方八方から蘆山に駆けつけた。

地震後一日半ほどで、全国の三十省から救援物資や資金が被災地に送られた。救援活動が政府の指示のもと、緊迫しつつも秩序だって行われた。

民間では、汶川大地震の震源地の映秀鎮の人々が、自発的に道具を携えて、車で蘆山まで救援に赴いた。「われわれには経験があります」と、彼らは語る。確かに、蘆山地震発生の際、国家の整然とした指揮のもとでの熟練した救援作業の展開にしても、人々の災難に打ち勝つという信念にしても、五年前の汶川大地震に密接な関係があると言える。まさにあの時に得た経験により、緊急対策案が決められ、蘆山震災の救援に冷静さと自信、そして効率がもたらされることになったといえる。

災害への対応についていえば、汶川から蘆山へと、人々もメデイアも理性度と成熟度が増したと言うことができるだろう。人々は単に善意や熱意から、盲目的に被災地に向かい、救援作業の邪魔をするようなことはしなくなった。被災地にやたらと電話をかけるのではなく、なるべく携帯で発信される情報やインターネットのミニブログを利用し、緊急連絡のために電話回線を譲るようになった。必要のない者はなるべく被災地にはゆかず、生命を救うための道路を空けておくようになった。メディアも、ただ人々の情緒に訴えかけるのではなく、情報の発信と被災地の人々の声や需要を伝えることに、報道の重点を置くようになった。

今日、われわれが蘆山の被災状況に注目し、蘆山の被災者を援助する時、汶川大地震時の救助活動の過程や復興建設の過程を回顧することで、中国が災難の中で成長してゆく姿や蘆山の希望に溢れた未来をはっきりと見て取ることができる。

 

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