河南省の農村振興で新たな試み 映画授業で育つ子どもの自主性

2022-10-01 17:03:02

黄驥=文・写真提供 

かつて炭鉱で栄えた河南省修武県の大南坡村は、石炭の枯渇に伴い同省内でも深刻な貧困村となった。しかし近年、修武県は「美に基づく経済」により、質の高い農村振興を実現する理念を打ち出し、国内外の優れた建築デザイナーやアーティストを大南坡村に招請。同村の歴史や自然と結び付け、美学の実践、公共文化事業、子どもの教育、建築物のリフォーム、民宿産業などの分野に力を入れ、農村振興の新たな道を探っている。 

この記事の筆者で、若手の女性映画監督・黄驥さん(38)は昨年10月、大南坡小学校で行われた美的センスを育てるサマーキャンプに参加。村の子どもたちの独力による映像制作を指導し、その過程と感想を記録した。(編集部注) 

  

映像制作で古里再発見 

中国南部の山村に育った私は、風に揺れる竹林や気ままに遊べる小川、ヒルはいるけれど涼しい水田を駆け回って幼少期を過ごした。スマートフォンやショート動画もなかった時代、私の身体的な記憶は自然に浸る中で形成され、その無限の世界も私の想像力を大きく刺激してくれた。 

私は18歳で北京電影学院に入学し、その後、映画監督となった。30年以上たった今、田舎の風景は相変わらずだが、多くの新しいものが現れた。特にスマホのショート動画は、田舎の子どもたちの放課後の生活にあふれている。子どもたちの目は、野山よりもスマホの中に「没入」している。 

映像は極めて影響力の強いメディアで、ある面では想像力を簡単に破壊する。例えば本で「鳥」と読んでも、思い浮かべる鳥の姿は人それぞれだ。だが映像の中の鳥は、その鳥しかない。もし村の子どもたちがショート動画の影響から逃れられないのであれば、子どもたちに主体的な「映像制作者」になってもらいたいと考えた。撮影や編集を通し、自分たちが生まれ育った古里を再発見してもらう。そうすれば、映像は子どもたちにもっと積極的な役割を果たすのではないか――私はそう考えた。 

  

自分たちでインタビューをして、それを撮影する子どもたち(写真・方凌宵) 

  

自ら撮影テーマを選ぶ 

大南坡村の子どもたちの映像制作訓練キャンプに招かれる前、私はこの村に大きな好奇心を抱いていた。美術館や書店、民宿などが新たに現れた村に対して、子どもたちはどう思っているのか。こうした異質な空間やすさまじい勢いを持つ各種の文化交流イベントは、子どもたちとつながりを生んだのか。だから私は映像のテーマ選びで制限や手引きを一切行わず、子どもたちが何に興味を持ち何を撮りたいかを100%子どもたち自身で決めるようにした。 

「あなたたちは村の何に興味がありますか」 

子どもたちは顔を見合わせ、何も答えようとしなかった。 

村の子どもたち自身が興味を持っていることや考えていることを、単に大人たちの「良い」「優秀」といった定義を満たすだけでなく、他人が見ても分かり、読んでも分かり、議論もできるような実体に変換できるようサポートすることは、決して容易なことではない。村での子どもたちと教師の関係は、都市のそれよりずっと濃密で、子どもたちの言動も自分に近しい教師の影響を受けやすい。私は、周りの先生が優秀な答えを期待していることが、子どもたちにはプレッシャーになっていると感じた。 

「皆さん、私がどんな『良い』映画が好きかなんて考えないでね」と私は言った。「一人一人が感じる興味に良い悪いなんてないよ」 

「本屋」「本屋のコーヒーの香り!」「なぜみんなは大南坡村に来るの」と、子どもたちは話し始めた。 

  

意欲と自信を引き出す 

子どもたちが一つ発言するたびに、私はそれを書き留めた。そして、黒板に映画制作チームの役割分担を書いてこう言った。「みんなはどの担当に興味があるのか、まず考えてね。それから教壇に上がってきて、確認してから引き受けてね、いい? それと、一つお願いがあります。その担当を選んだ理由をみんなに話してください。どうして監督をやりたいのか。どうしてカメラマンになりたいのか。どうして編集をやりたいのか。どうしてその仕事を担当したいのか」 

それを聞いて、今から腕が鳴るとばかりに顔を輝かせる子どももいれば、頭を垂れて黙考する子どももいた。意外なことに、最初に教壇に飛び込んできたのは、6年生ではなく、4年生の女の子だった。 

小学生時期の教育で、ルールと秩序の確立は比較的簡単で直接的だ。それは、しばしば成績と教師の好みで決まる。知らず知らずのうちに、このシステムはすっかり定着している。 

そこで私は、この「学年」の考えを破ってみた。監督、カメラマン、取材、スチール写真など、通常の映画制作チームの仕事ごとにグループ分けした。子どもたちはそれぞれの担当を選び、なぜ自分がその仕事をやりたいかをみんなに説明し、さらに互いにチームの仲間を選んでもらった。これは、集団的な教育活動とはいえ、子どもたちにはやはり個人の主体性に基づき、個としての自発性を持って集団に協力してほしい――当初からそう望んだからだ。 

3日間のうちに、あるチームでは6年生が5年生の監督を追い払い、撮影テーマも変えるという事件が起きた。しかしその後、チームメンバーは新たに選んだ監督やテーマはぴったりこないと感じ、チーム内での投票を経て、元々の監督と撮影テーマに戻した。これは非常に面白いことだ。 

こうした日常的な秩序を打破する試みは、微々たる効果だったが、少なくともこの3日間は、子どもたちは映画を通して自分の考えを実現することができた。大人たちは無条件に100%サポートし、付き添い、子どもたちの「道具」となった。 

  

「子どもたちの映画祭」が開催された大南坡村の広場(写真・三金)   

特に女の子ばかりのチームには、私は、もっと自信と勇気を持ち、そんなに「良い子」にならないでと願わずにはいられなかった。小学生の頃から大人の言うことばかり聞いていたら、一生自分の意見を言えないと思う。 

自発的な好奇心は貴重だがもろく、子どもたちに行動を起こさせ、少しずつ行動の限界を広げていくことが大切だ。認知は流動的で常に変化している。だが、それは無から生じるわけではない。具体的な事柄において絶えず「行う」ことが必要で、他者との関係を構築する練習を何度も繰り返す中で生まれるものだ。 

例えば、なぜみんなは大南坡村に来るのかという映画を撮りたい子どもたちが、いろいろな人に質問しなければならないのと同じだ。質問をする過程も人との交流の過程でもあり、子どもたちはさまざまな態度や全く違う答えを得る。子どもたちにとっては、これらの見慣れた答えと見慣れない答えが並ぶこともまた「多くのヒントを得る」ことになる。これは、カメラを持って遠巻きに眺めたり、一瞬立ち止まってパシャっと写真を撮って立ち去ったりするのとは違う。 

  

つながりを築く重要性 

映像キャンプが終わると、自分の家族や自らの身近なものを撮る子どもはほとんどいなかった。大南坡村では、新しいことが次々と起こり、引き寄せられる人も後を絶たず、ここで育った子どもたちは、よそから来る人や事、物により興味を持っているのだろう。建築デザイナーやアーティストたちがもたらした建築や生活スタイルは、確かに村の生態系に定着し、この村の一部になった。しかし同時に、村の子どもたちはこれらを使用する権利は得ても、深く関わっていないように感じた。 

子どもたちと話し合い、目の前で起こっていることを理解できるように導いてくれる人はほとんどいない。建築家のアイデアが現実の物となったとき、子どもたちはこれらの言葉を話せない建物から何を感じるだろうか。もし建築デザイナーと直接的なコミュニケーションがなければ、子どもたちは普段の生活の中で、身近な人から好奇心を満たす確かな答えを得ることは難しいかもしれない。 

さらには、現地の人たちは周囲の環境とどうつながりを築いていくのか、ということも考えた。なぜなら、身近な環境を意識し、自分が暮らしている場所により深い感情的なつながりを持ってこそ、自分の心の声を発することができ、芸術村づくりの成果も本当に田舎に根付いていくからだ。 

私たちは映画祭が始まる前に、子どもたちが映画のポスターを貼ったり、チケットを配ったりすることを考え、身をもって他人とつながりを築くようにした。ある子は、初めてチケットを配りに行ったときは全身が震えたが、2回目は少し良くなったと言ってくれた。 

何事も練習が必要だ。映画制作という具体的にやるべきことがあり、しかもそもそものきっかけが自分たちだからこそ、子どもたちは全ての過程にささやかな「自我」を持ち、他者や大南坡村の村づくりと、つながりを築いていくのだ。 

  

子どもたちがデザインし描いた映画祭のチケット(写真・方凌宵)   

子どもたちの映画祭は、地元の子どもと外から来た観光客がランダムに「見る_見られる」という自然な感情を発露する機会だ。また、チケットを「配る_受け取る」という行為を通して、実際的なつながりが生まれている。残念ながら、時間の関係で、映画祭で各作品の上映後に観客と子どもたちを招いて感想を交わしたり、観客の質問を子どもたちに投げ返したりすることができなかった。 

大南坡村を離れた後、先生たちから子どもたちの感想文が送られてきた。子どもたちの真剣な言葉に胸を打たれた私は言いたい。 

「親愛なる子どもたち。私もあなたたちと一緒に田舎に新しい時代の喜びを見つけました。私はこれからもまた映画授業を続けていきたいと思っています」 

 

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